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富津館山道路 富浦ICを出て海側に向い、内房なぎさラインを南へ進むと大福寺への入口がある。
国道127号から入る狭い道は坂道となり、上り切った辺りに石標と石段がある。
石段を上がると、砂利を敷詰めた境内に正面に建つ本堂へと敷石が続いている。
大福寺は、真言宗智山派に属する寺院で、朱塗りの観音堂が船形山中腹の断崖にはりついたように建っていることから、通称「崖の観音」と呼ばれている。
本堂・延命地蔵尊
本堂の左手前には延命地蔵尊の石仏が立っている。
延命地蔵尊の前を左奥へ足を進めると、観音堂へ続く石段が待ち構えている。いよいよ、観音堂へのアプローチだ。
下から見上げると、上るのが厳しそうに見えるが、石段を一歩一歩上って行くと、途中に不動堂が建っている。
お不動さんをお参りするという名目で、息を整える。
方向を変えて再び石段を上る。....観音堂は目の前だ。意外とスムースに到達できた。
観音堂に上がると、堂内には、石龕にレリーフ状に彫られた十一面観音像が見える。(写真左) 風化が進んで顔がよく分からないが、法衣のひだを確認できた。 県内最古の磨崖仏(まがいぶつ)だそうで、館山市の有形文化財に指定されている。 (写真右:画像をクリックで拡大画像表示) |
再び外から観ると、観音堂が観音像を囲むように建てられている様子がわかる。
観音堂の舞台からは、船形の町並みを眼下に、館山市内を一望でき、遥か州崎半島まで眺められ、眺望抜群の舞台である。
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約4分 |
崖の観音から、再び内房なぎさラインに出て、JR内房線の踏切をこえればすぐに那古寺の入口がある。車で約3〜4分の距離。
坂東三十三観音霊場
那古寺は、坂東三十三観音霊場の結願寺でもある。
養老元年(717)、行基の開基により創建されたと伝わる古寺である。
本尊の千手観音立像は、像高105cm、鎌倉時代の作といわれ、国重文に指定されている。
坂東の札所は参詣客が多く、訪れた日も、札所巡りツアーの観光バスで40名ほどが来て、堂内で読経していた。
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那古寺の前の道を、道なりに3分ほど南下すると左手に鳥居と参道が見えてくる。
由緒
鶴谷八幡宮の歴史は古く、平安時代初期に安房國総社として国府近くの三芳村府中(現南房総市府中)に創建されたとのこと。
鎌倉時代に入り、総社信仰が衰微し、源氏の影響で八幡神信仰が高まり、総社から八幡宮に改変され現在地に遷座したと言う。
現在ある本殿は享保5年(1721)に造営され、昭和51年(1976)に改修された建物。
幣殿拝殿は大正12年(1923)の関東大震災で倒潰し、昭和7年(1932)に再建されたもの。
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鶴谷八幡宮から海岸に出て、海沿いの道を約20分ほど走ると洲崎神社に到着する。
道路に面して入口があり、参道が御手洗山(119m)に向って延びており、洲崎神社の社殿は147段の石段を上った御手洗山の中腹に建っている。
由緒
神武天皇の御代、天皇の命を受けた阿波忌部一族の祖天富命が肥沃な土地を求めて、房総半島に上陸、房総を開拓した。
忌部の総祖神天太玉命を祀ったのが安房神社で、后神天比理刀当スを祀ったのが洲崎神社であるとしている。
文化9年(1812)、房総沿岸を視察した奥州白河藩筆頭老中松平定信が「安房國一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。洲崎神社を一宮とした根拠はこの扁額なのだそうだ。
明治初期に教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、すぐにこの決定を覆して洲崎神社を式内社としたが、その論拠が明白でないところが、論社たる所以かも知れない。
またこの時、県社へ列格したとある。
入口〜隋神門
鳥居をくぐって参道を進むと、まず左手に重厚な瓦葺に格子天井という立派な手水舎が建っている。
更に1段高い位置に丹塗りの随身門が構えている。建造は宝永年間(1704〜1710)といわれ、左右にはちゃんと随身(俗に言う矢大神,左大神)が安置されている。この随身像は明治3年の作といわれている。
軸部を丹塗りとしているが、木鼻に青く塗られた獅子の彫物をを付けているのが印象的である。
手水舎 |
随身門 |
随身門の先から長い石段が続く。かなりキツイ....上り切って振返ると絶景がまっていた。
拝殿・本殿
拝殿は入母屋造、銅板葺で流れ向拝付。高欄を付した縁を廻らせている。
本殿は三間社流造り、銅板葺、延宝年間(1673〜1681) の造営とされ、1967年市の有形文化財に指定されている。 軒下の組物を三手先とし、柱など軸部は丹塗りで仕上げている。
また、
随身門に見られたような木鼻に獅子の彫物が施されている。
境内に狛犬を見ていない。これら木鼻の獅子は狛犬の代わりなのか、無住の神社なので聞く相手がいない。
拝殿 |
本殿 |
境内社
社殿周辺に幾つかの境内社が鎮座している。
金比羅神社 |
長 宮 |
御祭神:金毘羅大神 |
御祭神:大物主命,建速須佐之男命, 大山津見命,豊玉彦命 |
稲荷神社 |
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御祭神:宇迦之御魂命 |
御朱印
洲崎神社は兼務社なので宮司が不在である。本務社である南房総市富浦町の愛宕神社、若しくは愛宕神社近隣の宮司宅でいただく。但し、宮司は10社ほど兼務しているので事前連絡が必要。
最近では、随身門内の戸棚に書置きのものが備えてあるので、箱に朱印代を納めて持ち帰る。
一般的なサイズと全国一の宮御朱印帳用の大判のものが用意されている。
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約17分 |
洲崎神社から房総フラワーラインを相浜まで来て、国道410号を左折して館山方面に向う。
コメリの前を折り返す様に右折すると、突き当たりに安房神社の鳥居が見える。
看板等はしっかり出ている。
安房國一宮
安房神社は安房國一宮である。やはり一宮は参拝者が絶えない。
本殿は明治14年築の檜皮葺き神明造りで、平成21年の平成大修造によって屋根の葺き替えられている。
拝殿は本殿同様神明造り。昭和52年(1977)築のコンクリート造りで、そのせいか近代的なイメージが一宮という雰囲気を漂わせない。
このやたらと間口の長い建物は、「御仮舎」と呼ばれるもの。
例祭時に、近郊の神社から神輿渡御で安房神社に入祭した神輿を納める為の建物だそうだが、現在は神輿の入祭は行われないとのこと。
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約25分 |
安房神社からは、開放的な房総フラワーラインを快走すること約25分で高塚不動に着く。
国道沿いではないので、近づいたら注意深く走らなければならない。
花摘みで有名な白間津を過ぎたら慎重に。七浦郵便局の先に出てくる「七浦小学校入口」を左折して狭い道に入る。
七浦幼稚園・七浦小学校の脇を抜ければ突当りが大聖院。
途中、道の駅や花摘み畑があるので、立寄りながら行くのも楽しい。
大聖院は関東三十六不動尊霊場の第33番札所で、高塚不動の名で知られている寺院。
本堂(写真右上)をお参りしていると、寺の若奥様から「本堂左から裏へ回ると不動堂へ上がる石段がありますよ」声を掛けられ、行ってみると、思わず考えてしまう長い石段が待っていた。
せっかくだから上ってみることに。
そこには、朱塗りの不動堂が建っている。振返ると、海までが眺められ、眺望が素晴らしい。
そもそも、不動堂は高塚山の山頂にあったらしいが、昭和36年(1961)に現在の場所に遷されたとのこと。
現在、山頂には奥之院が建っていて、本堂前右手から登山道が延びているとのことだが、奥之院の参拝は勘弁してもらった。
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約7分 |
高塚不動から再び房総フラワーラインを千倉駅方面に進み、忽戸小学校を目指す。
小学校の脇を通っていくと、能蔵院に着く。
大聖院と同様、小学校の通学路を走行するので、下校時と重なった時は極めて要注意である。できたらこの時間帯は避けたい。
沿革
2010年から、「再興五百年記念事業」として本堂・護摩堂の建替えが行われ、右写真の本堂はもうない筈。
由緒書によると、能蔵院は現在地から1kmほど西の山麓にあった蓮台寺能蔵院を、天文2年(1551)現在地へ遷したとある。
2010年4月に解体した本堂は、正徳5年(1715)に再建した建物だそうだ。
東国花の寺という事もあって、境内には色々な花が植栽されている。
また、蓮の寺として蓮を鑑賞できる桔梗庵があり、応対された奥様に案内いただき、お茶のご接待をいただいた。
境内には花に因んだ花観音が本堂前に立ち、裏手には願掛け不動の石像が立っている。
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約5分 |
能蔵院から房総フラワーラインを3分ほど走り、千倉橋脇の信号を直進?(国道410からは左折)して50m先を左分岐。
更に少し先へ行くと、右手の小高い山裾に高家神社が鎮座している。
高家神社は料理の祖神を祀る神社として、調理関係者や醤油醸造業者などから崇敬されているらしい。
拝殿の左右には庖丁塚が立ち、毎月17日には庖丁供養祭が催される。
拝殿は平成12年(2000)に改築された茅葺の新しい建物である。
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約12分 |
高家神社から県道187号で千倉駅を越え、内房線の内側へ入って行く。南房総市の久保を目指して走る。
沿革
真野寺は、神亀2年(725)、行基菩薩により開山したと言われる。
北条義時公が私財を投じて七堂伽藍を整備、徳川将軍家より御朱印四十三石を賜るなど隆盛を極めたが、元禄の大地震、関東大震災により壊滅的な被害を被ったという。
後の再建により、昭和35年(1960)落成の現本堂、大黒天祈祷所、観音堂、七福神堂(下写真中央)、庫裡等の堂宇が建ち並ぶ。
本尊は、行基の作といわれる覆面千手観音。
また、朝日開運大黒天と称される大黒天像は、貞観2年(860)に慈覚大師が彫り上げたといわれる木造大黒天(下写真左:画像クリックで、拡大画像が表示されます。)だそうだ。
関東八十八ヶ所霊場の札所でもあり、山門に札所の看板が掛かっていた。
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約8分 |
真野寺から国道128号に出て右折。加茂交差点を左折して国道410号を走る。案内標識では久留里・清和県民の森方面となる。
左手に石の鳥居が見えたら細い道を左折して莫越山神社の駐車場に向う。
南房総市には莫越山神社と称する神社が沓見と宮下地区とに2社あり、訪れたのは沓見地区の莫越山神社である。
由緒
由緒抜粋によると、創建は神武天皇元年、天富命(あめのとみのみこと)が忌部の諸氏を率いて、安房の國に来臨し、東方の開拓をされた折、随神として来られ工匠の職に奉仕した、天小民命(あめのこたみのみこと)、御道命(みちのみこと)が、忌部の神「手置帆負命・彦狹知命」を莫越山にお祀りして祖先崇敬の範を示したとある。
延喜の制に於ては式内小社に列せられ、里見氏、徳川氏より三石の寄進を受けている。
拝殿正面の額字は明治25年(1892)、より社号額字の御親筆を賜わったものである。
鳥居と参道
莫越山神社へは国道410号から神社正面へ延びている道があり、その先に鳥居が見える。だが、この鳥居は二の鳥居で、本来の参道入口はそこより南にある。
一の鳥居から国道140号に並行して参道があり、西へ直角に曲がった所にあるのが二の鳥居である。
石垣と石燈籠
二の鳥居を抜けると長い石段が待ち構えている。石段の上がり口には門構えのように石垣が組まれており、両側に葉石燈籠が立っている。
この石垣は文久元年(1861)地元沓見の氏子によって組まれたものだそうだ。また、石灯籠は寛政元年(1789)、地元の加瀬作右衛門氏が奉納したものであるという。
さて、ここからが恐怖の石段上りである。メタボな自分にはキツイ。
一の鳥居 |
石垣と石灯籠 |
石段上からの眺め |
拝殿・本殿
頑張って石段を上がると石畳が真直ぐに敷詰められ、正面の一段高くなった石垣の上に、玉垣に囲まれて神明造の拝殿及び本殿が建っている。
敷石の先から七段ほどの石段を上がったところに三の鳥居が立っている。
石垣は明治25年(1892)、天羽郡金谷(現富津市)の講中が奉納したとのこと。
拝殿前の賽銭箱には五七の桐の神紋が彫られてあった。
石垣が積まれた上に拝殿が建つ |
本殿は更に石垣が積まれた上に |
手前に立つ1対の石灯籠は、昭和3年(1928)に建築事務所親建会が奉納したもの。祭神が工匠の守護神であることから、建築関係者からの奉納が多く見受けられる。特に東京の講関係が多い。
境内諸堂
若宮神社 … 拝殿の右手に鎮座する神明造の社殿は、明治16年(1883)の本殿建築の際、ここに造立された神社である。
現社殿は、昭和4年(1929)に、東京四谷大工組合祖神講の関係者によって再建された社殿であることが、再建記念碑に刻まれている。
観光客には余り知られていない莫越山神社ではあるが、講の組織が充実しているからか、こうした境内社にも拘らず立派な社殿が建てられている。
延喜式神名帳に列記されている所以なのかも知れない。
若宮神社には、祭神に小民命(こたみのみこと)と御道命(みぢのみこと)を祀り、相殿に9社10柱が祀られている。
神饌所 … 弊殿から続く渡り廊下の先には神饌所(しんせんしょ)が建っている。
神饌所は神様にお供えする供物を調理するための建物とされている。
社務所・神輿庫 …
玉垣で囲まれた場所から一段降りた境内左手に建つ建物は、社務所・神輿庫とのことだ。
中には莫越山神社正遷宮上棟式を描いた大絵馬や、建築関係の講社から奉納された多数の額があるという。
また、毎年鶴谷八幡宮に出祭する神輿も納められている。
御朱印
社務所には誰も居ないので、近所にある宮司宅へ伺う。
宮司が書入れをしている間、お茶の接待を受けながら奥様としばし会談。
大絵馬のこと、講社が東京に多いこと等々、色々伺うことができた。
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御神木のスダジイ 町指定天然記念物 |
本日の寺社巡りはここまで。宿泊の為安房鴨川に移動。
2日目は、鴨川市にある日蓮宗の霊跡寺院(本山格)鏡忍寺からスタート。
鏡忍寺は、日蓮宗の14ヶ寺ある霊跡寺院の一つで、日蓮聖人の小松原法難の霊跡として有名な寺院である。
鏡忍寺は文永元年(1264)、日蓮聖人が小松原法難の際、鏡忍坊と共に討たれた天津の城主工藤吉隆の子日隆が日蓮の命を受け、弘安4年(1281)に創建した寺院である。
小松原法難とは、日蓮聖人が真の仏法は法華経以外にないと、他宗を否定したのがもとで地頭と対立し、文永元年(1264)小松原で念仏宗の信者、地頭東条景信指揮の数百人に襲われ、弟子の鏡忍房日暁と信者の工藤吉隆が殺され、日蓮も額を斬られ、左手を骨折するという重傷を負った事件を言う。
いつの世も宗派批判は災いの本ですな。
総門から仁王門へ
両脇に土塁が築かれた総門を抜けると、広大な境内が広がり仁王門へと真直ぐに石畳が延びている。
石畳の先には三段ほど石段があり、一段高い位置に仁王門が建っている。
仁王門は三間一戸の楼門で、入母屋屋根、瓦葺の大きくしっかりした構造である。
三手先の組物で上層部を支え、高欄を付した廻縁が設けられている。軒廻りは二軒で大きな瓦屋根を支えている。
瓦葺の堂々とした楼門 |
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三手先の組物 |
縁を支える尾垂木と二軒の垂木 |
鐘楼・三十番神堂
仁王門から真直ぐに進むと佛殿だが、その手前左手の山の上に鐘楼堂と三十番神堂が建っている。
三十番神とは、1ヶ月30日間(旧暦)毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。
法華経の説に基づいて、天台宗を開いた最澄が比叡山に祀ったのが始まりといわれ、後に日蓮宗に広まり法華経守護の神(諸天善神)とされた。
各種の三十番神が登場し、神堂系,仏教系に分類される。著名なのは、宮中のための三十番神である禁闕守護三十番神と法華経守護三十番神であるとされる。
滋賀県の日吉大社にはその幾つかが祀られている社殿が存在する。
日 | 神名 | 本地仏 | 日 | 神名 | 本地仏 |
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1 | 伊勢大明神 | 大日如来 | 16 | 赤山大明神 | 地蔵菩薩 |
2 | 八幡大菩薩 | 阿弥陀如来 | 17 | 健部大明神 | 阿弥陀如来 |
3 | 賀茂大明神 | 聖観音 | 18 | 三上大明神 | 千手観音 |
4 | 松尾大明神 | 毘婆尸仏 | 19 | 兵主大明神 | 不動明王 |
5 | 大原野大明神 | 薬師如来 | 20 | 苗鹿大明神 | 阿弥陀如来 |
6 | 春日大明神 | 釈迦如来 | 21 | 吉備大明神 | 虚空蔵菩薩 |
7 | 平野大明神 | 聖観音 | 22 | 熱田大明神 | 大日如来 |
8 | 大比叡権現 | 国常立尊 | 23 | 諏訪大明神 | 普賢菩薩 |
9 | 小比叡権現 | 薬師如来 | 24 | 広田大明神 | 勢至菩薩 |
10 | 聖眞子権現 | 阿弥陀如来 | 25 | 気比大明神 | 大日如来 |
11 | 客人大明神 | 十一面観音 | 26 | 気多大明神 | 阿弥陀如来 |
12 | 八王子権現 | 千手観音 | 27 | 鹿嶋大明神 | 十一面観音 |
13 | 稲荷大明神 | 如意輪観音 | 28 | 北野天神 | 十一面観音 |
14 | 住吉大明神 | 聖観音 | 29 | 江文大明神 | 弁才天 |
15 | 祇園大明神 | 牛頭天王 | 30 | 貴船大明神 | 不動明王 |
佛殿
正面に戻って、突当りには佛殿が建っている。
いわゆる本堂で、入母屋造に唐破風の向拝を付けた大きな建物である。
向拝には鏡忍寺と書かれた扁額が掛かっている。
上がって参拝。正面には煌びやかな須弥壇が、欄間には二代目伊八 武志伊八郎信常作の「双龍の図」が彫られている。
初代の伊八、武志伊八郎信由は「波の伊八」と称され安房国長狭郡下打墨村(現鴨川市打墨)生まれの宮彫師で、ダイナミックな波の彫刻が有名である。
伊八の作品は、五代目伊八まで200年に亘り、房総南部を中心とした神社や寺院の欄間彫刻などに秀れた作品を残している。
佛殿左側に見える妻入りの建物は大玄関。その奥に寺務所があり、御首題はそこでいただいた。
清正公堂
佛殿から右へ歩いて行くと、日蓮に縁のある清正公を祀る清正公堂が建っている。
間口三間の入母屋造、瓦葺の小さなお堂で、妻入りに建てられている。
加藤清正は熱心な日蓮宗の信徒であり、日蓮宗の寺を数多く創設した人物である。
東京にも、港区白金台の最正山覚林寺(日蓮宗)に清正公の位牌が祀られている。
鬼子母神堂
清正公堂の右手に建つのが、鬼子母神堂で、清正公堂と同様、間口三間の入母屋造であるが、こちらは平入りに建てられている。
日蓮は法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね法華信奉者の守護神としている。
これは、鬼子母神が法華信奉者の擁護と法華信仰弘通を妨げる者の処罰を行うという事に基づいているからという。
関連して、日蓮宗・法華宗の寺院に鬼子母神を祀る事が多く、東京の入谷鬼子母神(真源寺:法華宗)や雑司が谷鬼子母神(法明寺鬼子母神堂:日蓮宗)などが有名である。
祖師堂
祖師堂は日蓮聖人を祀る堂宇で、本堂とは別に建っている寺院が多い。
鏡忍寺の祖師堂は、近年建替えられた建物で、真新しい感じが漂っている。
旧祖師堂は、明和2年(1765) に建立されたもので、以来240年間風雨にさらされ老朽化が進んだため、平成25年の「小松原法難750年」を迎えるにあたり建て替えが行われた。
棟に反りを持たせた入母屋造に、大きな千鳥破風を付け、向拝は唐破風と、堂々とした建物である。
旧祖師堂の外壁の蟇股26枚が初代伊八 武志伊八郎信由の作品であることが分かり、同様に初代伊八の作品である欄間七福神の彫刻三面と共に、現祖師堂に敷設されたという。
法難堂
日蓮は、文永元年(1264)の小松原法難の際、戦死した鏡忍坊を埋め墓標として松の木を植えた。
明治35年(1902)、台風によって松の木は倒れてしまったので、その松の木で3躰の日蓮聖人像を刻み、その1躰を法難の場所に堂を建てて祀ったのが法難堂である。
現在ある法難堂は、小松原法難750年を迎えるにあたり、改築を行い堂下に室を設け写経を納めたと記してある。
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約20分 |
鏡忍寺から県道181号へ出て右折、東町の立体交差をアンダークロスして、国道128号の旧道を行く。
天津交差点を左折し、暫く道なりに県道81号を走り、山間部へと向う。
看板に従い右折すると清澄寺に到着する。
約20分の道のりである。
鏡忍寺に続いて日蓮宗の霊跡寺院である清澄寺は、日蓮が出家得度・陸橋開宗した寺院である。
文久3年(1863)建立の朱塗りの仁王門を入り、左へ行くと、数段づつの石段、そして鐘楼堂の先に摩尼殿(まにでん)と称する本堂が建っている。
堂内宮殿には十界大曼荼羅が祀られ、その前には日本三体虚空蔵の一つである能満虚空蔵菩薩と呼ばれる虚空蔵菩薩像が安置されている。
境内には、その他に昭和48年(1973)落慶の近代的雰囲気の祖師堂、安房国札三十三観音霊場第17番札所の札所本尊十一面観音を祀る観音堂、清澄山の根本鎮守である妙見大菩薩を祀る妙見堂、
報恩殿、鐘楼堂、庫裏、宝物殿など多くの堂宇が建っている。
仁王門と相対した位置に樹齢千年を越すという大スギがある。
目通り15m、樹高47mの巨木で、国の天然記念物に指定されている。
仁王門摩尼殿 |
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祖師堂観音堂 | |||||||||||||||||||||||
鐘楼堂清澄の大スギ | |||||||||||||||||||||||
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約13分 |
清澄寺から再び天津交差点に戻り左折。途中の国道128号立体交差では、アンダークロスする。バイパスを通ると天津神明宮には行けない。
そのまま市街地を抜け、バイパスへ上がる手前を左折し、JR外房線のガードをくぐったらすぐに天津神明宮に着く。
"房州伊勢の宮"というキャッチが表すように、御祭神に伊勢神宮と同じ「天照皇大神」,「豊受大神」を祭り、神紋も伊勢神宮と同じ花菱。
境内諸堂
真直ぐ延びた参道を行くと、一段高くなった境内奥に新しい感じのする神明造の社殿が建っている。
拝殿手前に土間拝殿を付し、拝殿・幣殿・神明造の本殿と続いている。
境内社は、境内東側に春日神(天児屋根命)・住吉三神を祀る春日社(写真左から2番目)が鎮座している。
境内西側には多数の神さまを合祀している長神社が建っている。
長神社には、八幡神(誉田別尊)・お稲荷さん(宇迦之御魂神)・その他多くの神さまが祀られている。
また、伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀る諾冉神社は東側の山頂にあり、険しい登山道を登って辿り着いた場所に社が建っているとの事。余りにも険しい道なので参拝に行く人は余りいないとか。
写真右端に写っている石段と鳥居が諾冉神社の入口。
弊殿及び本殿春日社長神社諾冉神社入口 | |||||||||||||||||||||||
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約7分 |
天津神明宮から国道128号に出て小湊方面に向う。
小湊漁港で道路は大きく右カーブとなり、その先に複雑な日蓮交差点がある。
右へ分岐すれば誕生寺、真ん中は国道128号、その左に狭い路地があり、ここを入って行く。伊勢屋旅館の脇といった感じ。
構わず進めば突当りが妙蓮寺。勾配を上がって境内に駐車できる。
日蓮聖人両親の廟所
街中の小高い場所に建つ妙蓮寺は、日蓮聖人が大切にしていた両親の廟所である。
日蓮聖人は父に妙日、母に妙蓮という法号を与え、自らはその一字をとって日蓮という法名にしたとか。
両親閣という名称で知られているが、正式には両親の法名を引用して妙日山 妙蓮寺と号したとのこと。
小じんまりとした境内には、感応堂(右写真)、両親閣御廟堂、本堂、23夜堂、鐘楼などの堂宇が建っている。
感応堂には、中央に日蓮聖人、右に妙日尊儀、左に妙蓮尊尼を配した三尊像が祀られている。
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約3分 |
日蓮交差点手前に戻り、一方通行へ右折。突当ったら左折。国道128号を鋭角に左折し、再びの日蓮交差点を一番海側の道へ右折して道なりに。
日蓮生誕の地
小湊は日蓮生誕の地として知られているが、誕生寺はまさにその生家跡に建立されたお寺である。
しかし、現在ある所とは別の場所に建っていたが、大地震や大津波に遭い、ここへ遷されたと言う。
誕生寺山内は広大である。
参道入口の総門を入ると、石畳が続き、その先に大きな仁王門が見える。(写真下)
五間三戸の重層門は間口8間と大きな建物だ。
宝永2年(1705)建立で、宝暦8年(1758)の大火にも焼け残った誕生寺最古の建築物。
仁王門をくぐると、左手に日蓮聖人御幼像が立っている。
更に先へと進むと大屋根の大きなお堂が建っている。
この建物は、天保13年(1842)建立の祖師堂で、間口7間、奥行6間入母屋造りの大きな堂宇である。
正面に三間の向拝を設け、中央部は唐破風を付してある。
堂内の宮殿には日蓮聖人像が安置されている。
祖師堂の裏へ回りこみ更にその奥に行くと、平成3年に建立の本堂が建っている。
誕生寺は霊跡寺院、いわゆる大本山にあたるお寺。
お勤めの時の読経は、曹洞宗や臨済宗などの禅宗のお寺と異なり、非常に迫力ある感じで、妙法蓮華経を読誦されていた。
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