木更津北I.Cから日月神社までのルートマップを開く
東京から、東京湾アクアラインを利用して木更津に入り、房総半島の中央を南下し、外房を回って再び木更津へと戻るコースです。このエリアは電車・バスの便が悪いので、マイカーかレンタカーがお奨めです。
勝浦,御宿辺りで1泊するとゆとりのある旅ができます。
最初に訪れたのが、通称「高倉観音」と呼ばれる坂東三十三観音霊場 第30番の高蔵寺です。
到着したのが7時半だったので、誰もいませんでした。納経所が開くのが午前8時なので、それまで境内を観て回りました。
山門をくぐると、正面に床の高い本堂が目に入ります。
重層入母屋造の本堂は、大永6年(1526)藤原時重が再建したという建物で、床の高さが1.8mもあります。
先程通り抜けた山門は、鐘楼と共に江戸時代初期の建築だそうだ。
本堂に入ると、おおきな鰐口が下がり、柱、天井などあらゆるところに汚らしく千社札が貼られていました。
格子で覆われた内陣に観音像が祀られています。坂東の観音堂でよく見かける光景です。
外陣には大きな縁結び地蔵が安置(写真中央)されていますが、何故この場所なのか疑問が残りました。
内陣を囲むように回廊が巡らせてあり、回ってみると、本堂東側境内には熊野神社の社殿(写真右)が建っているのがよく見えます。
本堂から下へ降りて、周辺の仏像を拝見しました。
本堂の階段脇に小さな石仏が座っていますが、釈迦如来でした。
本堂に向って右手には水子・子育て地蔵尊像が、左手には何とも愛らしい姿の望叶観音(のぞみかなえかんのん)像がおられました。
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高蔵寺から県道23号木更津末吉線・国道410号久留里街道を走って円如寺に行くのですが、R410号から左に入るところに看板が立っているので見落とさず左折します。
円如寺前の道路から数段の石段を上がると、両側に杉の大木が並んだ割と長い参道が続いています。
その先には、左右に石段があり、何れも本堂などが建つ一段高い場所に出ます。
左側の石段脇には、水子・子育地蔵が祀られているお堂と、六地蔵が並んでいます。
右側の石段を上がった所に、「山王山」と書かれた額の掛かる丹塗りの小振り仁王門があります。
仁王門を通り抜けると、間口9間、入母屋造の大きな本堂と薬師堂が建っています。
薬師堂は三間四面で、宝珠を載せた宝形造りに流れ向拝を付したよく見かけるタイプですが、降棟鬼瓦を二つ備え本堂と統一感を出しているのが特徴的です。
薬師堂には、上総国薬師如来霊場の札所本尊である薬師如来が、日光菩薩・月光菩薩と共に安置されています。
この薬師如来は「髪薬師」と呼ばれ、秘仏ですが、寅年に御開帳があるとのことです。
また、向拝の柱に札が掛かっているように関東八十八ヶ所の札所でもあり、厄除弘法大師が祀られています。
薬師堂前には多くの幟が並び、霊場らしさを演出しています。
本堂には、本尊大日如来と、観音霊場の札所本尊である十一面観世音菩薩が祀られています。
本堂左側花頭窓には、上総七福神の寿老人が祀られており、その前には七福神の石像が並んでいます。
石仏は、鐘楼脇にもたくさん立っています。
参拝後、庫裏でお茶の接待をいただき、自家製の3年モノという梅干をいただきました。
紫陽花、大賀ハスなど花を楽しめる円如円ですが、東国花の寺では萩ということなので、萩の時期にまた訪れたいと思います。
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円如寺から県道32・81号で上総中野に出て、更に上総興津を目指します。勝浦あたりで1泊するなら、養老渓谷をゆっくり散策するのもよいでしょう。
妙覚寺は、日蓮聖人が最初に開始した寺院といわれ、日蓮宗の由緒寺院つまり本山格の寺院です。
また、病気をなおす”布曳きのお祖師様”を安置する寺として信仰を集めています。
布曳きの祖師というのは、この地に疫病が蔓延した時、日蓮聖人が白布に「南無妙法蓮華経」と題目を書き、海水に浸した白布を船の艫に結び、布を曳きながら病気退散を祈願したところ、疫病がなくなったという謂れによるものだそうです。
上総興津駅の南側を走る旧国道に面して門があり、三段の石段脇に題目を刻んだ石標が立っています。門の先は長い参道が続いています。
参道を歩いて驚くのは、途中にJR外房線が横切っていることです。警報機の無い踏切を注意深く渡ると、その先に立派な山門(仁王門)がポツンと建っています。
踏切を渡って参道を振返ると、左のような光景です。
勝浦市の歴史文化財にもなっている山門は、三間一戸、桟瓦葺き入母屋造りの楼門です。
メンテナンスが行き届いているのか新しく見えますが、天保10年(1839)の建立です。
山門の先には、右に間口九間の大きな本堂、左に祖師堂(写真左)、更にその左側には日蓮聖人が十日間説法を行ったといわれる釈迦堂が建っています。
入母屋造りに大きな流れ向拝を付した本堂には、大きな文字で「妙覚殿」と書かれた額が掲げられてます。
内陣には、日蓮宗独特の木鉦が置かれ、複数の僧が読経できるよう座布団や経典が用意されているなど本山としての風格が伺われます。
本堂と祖師堂の間にある碑は「仙台船繋船柱」といわれる船を繋留するための支柱でだそうです。
江戸時代、興津は東北地方の諸藩の廻米交易船を繋留する港として栄え、中でも最も多く往来した仙台藩によって設置された繋留柱だそうです。
繋船柱の前で振返ると、立派な鐘楼堂が目に入ります。本堂の屋根のようなどっしりとした構えで、なかなかこれほどの鐘楼堂は見ません。
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上総興津から国道128号で勝浦を過ぎ、御宿町から県道176号へ分岐し暫く走ると、左に「春日宮」の名が掛かった鳥居があります。
長い参道の先に小高い山があります。どうやら山頂に神社がある雰囲気です。
…と、目の前に長い石段が現れてきました。
塗りの褪せた神橋を渡り石段を上ると、途中に狛犬が...。
まだかまだかと何度も上を見上げ、息を上がらせ上り切ったそこに待っていたのがこの社。
拝殿は? 本殿は? 社務所は?
小さいながらしっかりした鳥居の先に、カーポートのような屋根に覆われて、お神輿ほどの可愛らしい社が祀られてありました。
予備知識とはまったく違う光景に、間違っていたかなぁ と思うほどだが、「春日宮」とあるから間違いは無い筈。
主祭神に天兒屋根命を祀り、旧郷社として御宿村の総鎮守であったと聞いていたが。
参道脇の畑を耕していた方に伺ってみました。
…6年ほど前に、社殿は焼失してしまったらしい。9月下旬の例祭日には参詣客も多いとのこと。
この郷の氏子中だけでは、この社の再建が精一杯だったのかも知れない。春日宮を護る思いが、奉納されている大きな瓢箪から伺えた。
周囲には色々な神様達が祀られているようです。
何故か手水舎は立派なものでした。類焼を免れたのでしょうか。
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春日神社から県道176号を北へ、下布施の信号を右折して県道174号を行くと右手の離れた処に赤い幟が並んでいるのが見えます。
長福寺は、”波の伊八”こと武志伊八郎信由の欄間彫刻がある寺院として知られています。
いただいたパンフレットによれば、大同2年(807)天台宗宗祖最澄による創建で、山号「硯山」は源頼朝が長福寺にて平家追討の書状をしたためた際、寺が差し出した硯が素晴らしかったので頂戴した山号だそうです。
県道から脇道に入ると、仁王門があります。三間一戸のよくあるタイプですが、中に「足さすりの仁王様」と呼ばれる仁王像が安置されています。
柵の間から手を入れて、足の痛い部分を擦ると、痛みが薄れるというご利益があるそうです。
この仁王様、顔の彫が深くないので何となく優しい感じがしないでもないです。
本堂に上がり、諸仏と欄間を拝見しました。住職の奥様が丁寧に説明され、お茶の接待も受けてしまいました。
間口九間、奥行六間の大きな本堂の中央には、本尊の阿弥陀三尊が安置されています。
阿弥陀如来坐像は室町時代の作と伝わるもので、光背は江戸時代に取り付けられたものだそうです。
脇侍に観音菩薩、勢至菩薩が安置されています。
この部屋の欄間に初代武志伊八郎信由の彫り物があります。中央が「波に龍」左右が「雲に麒麟」だそうです。
初めて見ましたが、やはり凄いです。
右の部屋は写経の間となっており、その奥に県指定重文の薬師如来坐像が安置されています。
薬師霊場の札所本尊になっている薬師如来像で、像高約1mほどの檜の木造で、11世紀頃に造像されたものらしい。
触れるほどの間近で拝見できるのは有難い。
薬師如来は左隅に祀られているが、中央には不動明王像が立っています。
本堂から少し離れた右手に、「無量壽庵」と呼ばれる堂が建っています。
2007年に開山1200年を記念して建立されたまだ新しい建物です。
内部には寺宝の硯が展示されています。
畳一畳よりは小さめではあるが、これが硯?と思うほど大きなものです。
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再び県道174号を少し進み、小さな川を渡ったら左折して集落に沿って1.3kmほど走ったところに橋が架かっており、渡った先が日月神社です。
途中、不安になったので、散策をしていたお爺さんに聞いたら、”わが部落の神社だ”といって丁寧に教えてくれました。
参拝を済ませ、車に戻ると、先程のお爺さんが、心配になったのか立っていました。何とも気の優しい方で、お礼を述べ「この神社は無人ですか」と訪ねると、90歳になる宮司が参道の左に、ご子息が右側の家に住んでいるとの事でした。
90歳になられるという宮司宅を訪れ、色々話を伺ってみることにしました。
日月神社の創建は古く、建長元年(1249)現在のいすみ市新田繰田台に鎮座したのが始まりとされています。
慶長元年(1596)現在地に遷座した後、慶安3年(1650)本殿を再建し、文政8年(1825)には現在の原型となる本殿を覆うように拝殿が建てられたとのことです。
床が低く、縁を巡らせてないのも、そういった事情からでしょう。
内陣のようにあるのが本殿だと言います。
「日月宮」の扁額もしっかり光っていましたし、向拝の木鼻や虹梁に見る彫刻もなかなかのものです。
石段はまだ時が経てるという印象はありませんが、狛犬や境内社に時代を感じます。
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日月神社から大原駅方面を目指し、国道128号の大原交差点を右折、大原漁港入口の信号を左折し道なりに行けば大聖寺の看板が出てきます。
大聖寺は関東三十六不動霊場の35番札所です。
不動堂は境内の海よりの高台に建っています。
波切不動と呼ばれ、漁業関係者からの信仰が深いとのこと
です。
「大原の 海の荒浪 切り鎮め 巌に坐す 不動明王」と御詠歌にも歌われています。
三間四面の堂は、茅葺の寄棟造りに低い縁を巡らせています。建立時期は不明であるが、室町時代と推定されると教育委員会の看板に記されてあります。
強い潮風を防ぐ為なのか、海側に面して囲いが付けられています。国指定重文なので、それなりの管理が必要なのでしょう。
本堂は、不動堂とは対照的なコンクリート造りの近代的な建築で、本尊の阿弥陀如来が安置されています。
不動尊霊場の札所だけあって、庫裏には納経所の看板が掲げられ、慣れた対応でした。
大聖寺は、山を切開いて平場を造ったような場所に建てられています。
不動堂裏の山を削ったようなところには、石仏群が立っていました。
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再び国道128号に出て北へ、岬町江場土の信号を右折し250mほど行った右手にあります。
車は社殿脇の入口から入れます。参道は更に先に鳥居があり、そこから拝殿へと敷石が続いています。
六所神社の創建は古く、暦仁元年(1238)
天照大神他、伊弉諾尊,
伊弉冉尊,
月讀尊,
蛭児神,
淡島神の六柱を勧請して創建したそうです。
水の神様として信仰を集めているそうです。
まだ新しい感じの社殿は、平成20年に再建した建物だそうです。
社殿左後ろにある末社の八坂神社の方が古いです。
末社 八坂神社 |
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六所神社から国道128号を横断し、県道152・154号と走り、清水観音の看板を目印に進めば清水寺に着きます。
坂東三十三観音32番札所で、広大な寺域は千葉県郷土環境保全地域「清水観音の森」に指定されており、境内の東側の谷あいは「音羽の森公園」として一般に開放されています。
坂東の札所とあって、参詣客が絶える事無く、大型バスを仕立てた団体客も訪れます。
団体が参拝に来ると納経所も混雑するので、駐車場にバスがいないとほっとします。
駐車場から本堂へと参道が続いており、最初に通り抜けるのが仁王門です。
三間一戸の銅版葺入母屋造りの仁王門は、老朽化により平成5年(1993)再建された建物です。
仁王門を通り抜けた左手に納経所があり、石畳の先には石段を上ったところに丹塗りの四天門が建っています。
四天門は入母屋造りの楼門で、文政5年(1822)の建立です。
風神・雷神が祀られ、石段右下には坂東霊場第三十二番 清水観音と刻まれた石標が立っています。
四天門を通り抜けると、右手に百体観音堂が建っています。
堂内に祀られているのは、坂東・西国・秩父霊場百ヶ所の観音様達です。
百体観音堂に付属してあるのが閻魔堂で、閻魔大王が祀られていました。
参道を挟んで左側に建つ四間四面、宝形造りの古い堂宇は、奥院堂で堂内には県指定有形文化財の木造十一面観世音菩薩立像が安置されています。
何故か屋根に違和感があったのは、平成9年(1997)に銅版葺へと葺き替えられた為でしょうか。
更に参道を進み石段を上がると、いよいよ正面が本堂です。
昭和49年(1974)に銅版葺に葺き替えられた大きな屋根に、間口の広い向拝を設け、高い床には高欄を付した回廊を巡らせた大きな堂宇です。
文化10年(1813)火災に遭い焼失の後、文化14年(1817)に再建されたとのことです。
汚らしく千社札を貼られてしまった外陣の天井には龍が描かれ、格子で仕切られた内陣には本尊千手観音が安置されています。
本堂手前右手には、朱塗りの鮮やかな鐘楼堂が建っています。
時折参詣者が鐘を撞いていますが、なかなかの音色です。
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清水寺より県道174・85・148号を経由して、玉前神社に向かいます。
玉前神社は上総國一宮で旧国幣中社の社格を持ち、別表神社ですが、香取神宮や武蔵國一宮の氷川神社のように、やたらに広いという境内ではなく、観て回るのにそれほど時間も要しません。
今回参拝に訪れて残念だったのは、改修工事中で黒塗り権現造りの社殿を拝見できなかったことです。
社殿はシートに覆われ、覗き見ることができませんでした。
工事の説明書きなど見て、いつ頃再訪すればいいのかなぁ、など考えながら境内を観て回りました。
社殿の右側に建つ社は、「招魂殿」といって案内板を見ると、大正12年(1923)建立の社で、日清・日露以降、第二次世界大戦までの一宮出身325柱の戦没者を祀ってあると記されてました。
鳥居脇の塀沿いに鎮座しているのが三峯神社です。 朱色の小さい社が可愛いです。 |
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最後に訪れたのは、坂東三十三観音霊場 31番札所の笠森寺です。
笠森観音の名で親しまれる笠森寺の観音堂は、大岩の上にたくさんの柱で組んだ、四方懸造(しほうかけづくり)という珍しい構造で、棟高34m、床高20mもある建物は、国重文に指定されています。
75段の階段を上った回廊からの眺望は抜群です。
釘を1本も使わない構造だそうだが、地震の時ってどうなんだろう。全体に揺れそうな気がしないでもないですが...。
駐車場から、女坂と呼ばれる階段を登って行くと、男坂と合流し二天門に出ます。本坊は男坂を下って行った先に建っています。
二天門は、三間一戸の単層門で、風神、雷神などが安置されています。
左上の写真は観音堂から見た二天門です。
門を通り抜けると視野が開け、例の観音堂が高くそびえているのが見えます。
二天門脇の小高い場所には、鐘楼堂と六角堂が建っています。
六角堂は朱塗りの建物ですが、退色して木の地肌が出てしまった部分もありますが、軒下の彫刻や木鼻の彫り物は興味深いです。
堂内には子育地蔵尊が祀られています。
参道の途中には、根元に穴の開いたクスノキがあります。 子授楠(こさずけのくす)と呼ばれ、根元の穴をくぐると子供が授かるというご利益があると言われています。 参道側から覗くと、穴の先に観音さまが見えました。 |
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