日本橋から品川宿へ
江戸東京寺社回廊
はじめに
日本橋から旧東海道品川宿までの寺社を巡る。
日本橋といっても、日本国道路元標のある日本橋ではなく、スタートは証券会社が建ち並ぶ日本橋茅場町の日枝神社日本橋摂社から。
新橋から品川まで、ほぼ第一京浜沿いに歩みを進めていくことにした。
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日枝神社 日本橋摂社(御旅所)
ひえじんじゃ にほんばしせっしゃ日本橋・茅場町
東京メトロ東西線 茅場町駅9番出口を出て、東京証券取引所へ向う道路に面して日枝神社の参道がある。
由緒
日枝神社日本橋摂社は、千代田区にある山王日枝神社の境外摂社で、天正年間(1573〜92)から、日枝神社の祭礼に八丁堀まで神輿が船で神幸したことに起因し、天正18年(1590)に社殿が創建された。
この地は徳川家光公より天台宗天海大僧正(慈眼大師)が拝領し、江戸城鎮守の山王日枝神社の山王御旅所に別当寺として智泉院の薬師堂を建立した。
本尊薬師如来は、山王権現の本地仏として、山王御旅所に安置されたものである。
明治の神仏分離令により日枝神社がここに残り、現在薬師如来は、川崎市の等覚院に安置されている。
大正4年(1915)、山王日枝神社が官幣大社に昇格した際、本社の境外摂社となった。
末社の浅間大神,菅原大神,稲荷大神は、昭和3年(1928)に社殿が再建された際、本殿に合祀されたという。
境内に鎮座している明徳稲荷神社との関係がよく分からない。
ビルの谷間に参道がある。正面の鳥居の先には社標を刻んだ石柱が立っている。
よく見ると、「官幣大社 日枝神社 摂社 日枝神社」とあるが、「官幣大社 日枝神社」の部分は何かで埋めた跡がある。
鳥居の先は、緑多い境内が広がっている。
ベンチが4台、携帯をいじっている若いサラリーマン2人、本を読みながら居眠りしているOLさん、それらを眺めている自分。
ここは、ひと時の休息の場なのであろうか....。
境内を横切って、本殿脇の通用口との通行がある。しかし、社殿に参拝する人は居ない。
狛犬の遠吠え?
一対の狛犬が天を仰いでいる。まるで遠吠えのようである。
参道入口を睨んでいる狛犬は見たことがあるが、天を仰いでいるのは初めて見る気がする。
ユニークな狛犬はあったが、本社にあるような神猿像は見かけなかった。
そのまま突当ると、授与所兼社務所である。
御朱印はここでいただくが、半紙に書置いたものに日付を書き込んでくれる。
神社の袋に入れて渡してくれるところは、さすがに日枝神社だなと思う。
明徳稲荷神社
境内北側奥に倉稲魂神を祀る稲荷社が鎮座している。
日枝神社としての説明には載っていない。
中央区神社めぐり事務局が発行している「お江戸下町 神社案内」には日枝神社に関しては何の記載も無いが、明徳稲荷神社については鎮座地も含め地図上に明確に掲載されている。
裏に回ると....
社殿の脇を通って裏側に出ると、永代通りへ通じる路地がある。
周りをビルで囲まれたこの地が、神幸のあった場所とは思えない環境である。
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名 称 |
日枝神社 日本橋摂社 |
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御祭神 |
大山咋神 (おほやまくひのかみ)
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相 殿 |
浅間大神,菅原大神,稲荷大神 |
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創 建 |
天正18年(1590) |
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社格等 |
日枝神社 摂社 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋茅場町1-6-16
03-3666-3574 |
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最寄駅 |
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烏森神社
からすもりじんじゃ新橋
日枝神社日本橋摂社からは、茅場町駅から東西線で日本橋駅へ。日本橋で銀座線に乗換え新橋へ向う。
乗換えを嫌うのであれば、都営浅草線の日本橋駅まで歩き(茅場町駅から地下通路で繋がっているので、雨天でも大丈夫)、茅場町から近いホームの新橋方面行電車に乗る。
どちらのルートでも、新橋駅ではJRの駅構内を抜けて「烏森口」へ出る。
金券ショップなどでお馴染みのニュー新橋ビルの向こう側に烏森神社は鎮座している。
由緒
烏森神社の創建年代は不詳といわれているが、由緒書によると天慶3年(940)、平将門が叛乱を起こした際、時の将軍藤原秀郷が武州のある稲荷に戦勝を祈願した。
すると、白狐が現れ白羽の矢を秀郷に与え、その矢によって速やかに乱を鎮め得た。秀郷はお礼として、霊地である現在地に神社を創建したのが始まりとある。
江戸時代の明暦の大火でも類焼を免れたこと、また椙森神社・柳森神社と併せ「江戸三森」として広く庶民から崇敬されてきたという。
現社殿は昭和46年(1971)に造営された建物だそうだ。
烏森神社はサラリーマンの聖地、歓楽街の一画にあるので、社務所が開いている時間帯の参拝がよい。アフター5では誘惑に駆られて、神社まで辿り着けるか心配だ。
細く延びた参道の先に鳥居らしきものが立っている。多分鳥居だ。
その先の石段を上ったところに拝殿が建っている。
鳥居もそうだが、社殿も非常にユニークなデザインである。
鳥居も社殿もモノトーンな基調なので、特異な形状に違和感が無い。美しささえ感じる。
社殿とは裏腹に、色みくじをはじめ、御朱印と共にいただける御守からパンフレットに至るまで、かなりカラフルなデザインである。
二つの授与所
通常は参道右手にある第二授与所(左写真)で御守やおみくじを頒布している。御朱印もここでいただく。
年末年始や大祭があるときは、拝殿下左の第一授与所が開いている。
御朱印の初穂料は500円で前払い。朱印帳に書入れをしている間、社務所前の椅子で待つよう促される。
書き上がると席まで持ってきてくれる。
カラフルな栞のような御守と福豆を御朱印共にいただく。
東京23区内では、明治神宮と初穂料は同額だが、絵葉書とこのお札では有難味が違う。
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名 称 |
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御祭神 |
倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)
天鈿女命 (あめのうづめのみこと)
瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
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創 建 |
天慶3年(940) |
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社格等 |
旧村社 |
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鎮座地 |
東京都港区新橋2-15-5
03-3591-7865 |
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最寄駅 |
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日比谷神社
ひびやじんじゃ汐留
新橋から汐留へ向う。汐留といっても日本テレビタワービルなど建つ側ではなく、JR山手線のすぐ内側の線路際。
烏森神社から歩いて8分程の距離である。
由緒
日比谷神社の創建年代は不詳である。
元は現在の日比谷公園内の大塚山に鎮座し、日比谷稲荷明神・旅泊稲(さば)荷明神と称していた。
慶長11年(1606)、江戸城拡張に当たり、氏子と共に現在の東新橋である芝口に移された。
明治5(1872)年に村社に列せられ、その後、関東大震災の影響で昭和3年(1928)の都市計画区割整理の対象となり、芝愛宕下町二丁目(現在の新橋四丁目)に換地されて、社殿が造営された。
平成21年(2009)、環状2号線の建設に伴い、現在地の東新橋2丁目に遷座した。
歴史的な事象が背景にあるとはいえ、随分と遷座させられた神社である。
第一京浜に面して参道がある。歩道との間に砂利が敷き詰めてあるのが、ここから神社の境内なるぞと主張しているように見える。
鳥居をくぐり、10段の石段を上がると拝殿、稲荷社、社務所へと敷石が続いている。
鉢植えだけではなく、もう少し樹木が欲しい境内である。
裏へ回ってみると、立派な千木,堅魚木を付けた本殿が見える。
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名 称 |
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御祭神 |
豊受大神 (とようけのおおかみ)
祓戸四柱大神 (はらいどのよつばしらのおおかみ)
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創 建 |
不詳 |
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社格等 |
旧村社 |
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鎮座地 |
東京都港区東新橋2-1-1
03-3433-2034 |
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最寄駅 |
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芝大神宮
しばだいじんぐう芝・大門
日比谷神社から汐留駅に向い、都営大江戸線を1駅乗って大門駅で下車。
芝大神宮は大門駅近くに鎮座する由緒ある神社。
伊勢神宮の内宮・外宮の御祭神を祀るところから、「関東のお伊勢様」と呼ばれるている。
元准勅祭社とされ、東京十社の一社である。
だらだら祭り
9月に催される例大祭は11日間にも及ぶところから、「だらだら祭り」と称され、祭りの期間中、生姜を授与していたところから別名「生姜祭り」とも言われている。
芝浜四町会、芝金杉町会等々の氏子各町神輿連合渡御では、芝大神宮石段前で、暴れ神輿が宙に浮く「さし」が見らる。
自分も縁あって氏子町から呼ばれ、神輿を担いだ経験がある。鳥居前で神輿を胴上げのように上に放り上げる。
生姜飴
授与所で販売されている生姜飴はチョット辛いが、クセになる美味しさだ。
芝大神宮については、「東京十社巡り 芝大神宮」に掲載。
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名 称 |
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御祭神 |
天照皇大御神 (あまてらすすめおおみかみ)
豊受大御神 (とようけおおみかみ) |
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創 建 |
寛弘2年(1005) |
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社格等 |
旧府社 |
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巡 拝 |
東京十社巡り |
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鎮座地 |
東京都港区芝大門1-12-7
03-3431-4802 |
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最寄駅 |
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東京十社巡り 芝大神宮 |
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増上寺
ぞうじょうじ芝公園
芝大神宮から再び大通りに出て、目にするのが道路の中央に建つ総門で、芝大門の名で親しまれている。
門の中央部分の道路は幅員が狭くなっているが、バスも通り抜ける東京では珍しい門である。
大門の延長上には、大きな増上寺の三門(三解脱門)が建っているのが見える。
この道を真直ぐ進めばよい。
増上寺の見どころは多い
増上寺は芝公園にある浄土宗大本山の寺院で、都心の一等地に広大な寺域を広げる大本山としての風格を持った寺院である。
境内には徳川将軍家墓所があり、二代秀忠公をはじめ、六,七,九,十二,十四代家茂公まで歴代将軍の内、六人の墓所が設けられているなど、徳川家の菩提寺であったことが窺える。
増上寺については「江戸三十三観音霊場 第21番」に掲載。
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三門(三解脱門)徳川将軍家墓所 |
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名 称 |
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本 尊 |
阿弥陀如来 |
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宗 派 |
浄土宗 |
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札 所 |
江戸三十三観音 第21番
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所在地 |
東京都港区芝公園4-7-35
03-3432-1431 |
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最寄駅 |
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関連記事 |
江戸三十三観音霊場 第21番 |
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芝東照宮
しばとうしょうぐう芝公園
増上寺の三門を出て右へ。芝東照宮の参道がある。
増上寺とは芝公園の広場を挟んだ隣にある。
広場を横切れば、参道をバイパスして社殿下に出られる。
由緒
芝東照宮は、元来は増上寺内の社殿であった。
家康の遺言により、元和3年(1617)自らの像を刻ませた「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造した。
この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。
安国殿は明治初期の神仏分離令により、増上寺から切り離されて東照宮となった。
明治6年(1873)郷社に列し、社殿は寛永18年(1633)の造替当時のものが維持されていたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により寿像と御神木のイチョウを残し焼失した。
昭和44年(1969)現在の社殿が再建された。
御朱印の授与
芝東照宮の社務所(社殿左手)が不在の時は、芝大神宮の授与所兼社務所でいただける。
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参道から社殿方向を見る |
御神木のイチョウ |
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名 称 |
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御祭神 |
徳川家康公 (とくがわいえやす)
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創 建 |
元和3年(1617) |
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社格等 |
旧郷社 |
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鎮座地 |
東京都港区芝公園4-8-10
03-3431-4802 (芝大神宮社務所) |
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最寄駅 |
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御穂鹿嶋神社
みほかしまじんじゃ芝
芝東照宮に近い都営三田線 芝公園駅から1駅の三田駅へ電車で移動する。
三田駅A6出口を出て、三菱自動車工業の本社ビル脇の路地を行くと、御穂鹿嶋神社の背面から境内へ入る。
よく眺めていた神社
京浜東北線の大宮方面行に乗ると、田町駅を過ぎた辺りで車窓から見下ろせる神社である。
事業所が品川にあった頃、帰宅時によく眺めた記憶がある。樹木に覆われていないので、社殿が丸見えだった。
随分開放的だなぁ.....。
アキバに移転してからは、通勤で通らなくなったので久々に拝見することとなった。
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三菱自動車工業のビル脇を行くと、獅子山スタイルの狛犬が立っている。
ここから参道....のように見えるが、社域ではない。だから、狛犬が片側(神社の領域)のみにあり、獅子山が好都合だったのであろう。 |
御穂鹿嶋神社は、もともとは別々の神社であった御穂神社と鹿嶋神社を合祀したとの事。
確かに社号標には御穂鹿嶋神社と刻まれてはあるが、拝殿内の扁額や社務所の表札を見ると、同居?
新旧入混り
拝殿左前に造られた新しい手水舎。その周囲には江戸時代作の狛犬と、本芝四丁目の氏子中が奉納した江戸時代の天水桶。
御朱印は、社務所棟の左端にある授与所で受けられる。
時折と言うか、割と頻繁に三菱側に面した入口から入り、拝殿前をすり抜けて境内右手に消えていくサラリーマン、OLさんを見かける。
何があるのだろうと、右手に回ってみると、そこには十人前後が喫煙をしていた。
ビル内には喫煙コーナーが無いのだろうか.....。港区らしい光景であった。
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名 称 |
御穂鹿嶋神社 |
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主祭神 |
藤原藤房卿 (ふじわらふじふさきょう)
武甕槌命 (たけみかづちのみこと) |
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創 建 |
御穂神社:文明11年(1479)
鹿嶋神社:寛永年間(1624〜1644) |
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社格等 |
− |
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鎮座地 |
東京都港区芝4-15-1
03-3452-2664 |
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最寄駅 |
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御田八幡神社
みたはちまんじんじゃ三田
御穂鹿嶋神社から再び第一京浜(国道15号)へ出て、品川方面へ下る。
43階建ての超高層ビルラ・トゥール三田の先に、江戸八所八幡の一社「御田八幡神社」がある。
道路に面して「御田八幡神社」と刻まれた石柱が立っているのですぐに分かる。
ビルの合間に樹木が覆い茂る参道があり、その先の石段を上っていくと、緑多い境内に小じんまりした社殿が建っている。
拝殿右手には社務所が建ち、授与所も兼ねている。御朱印はここでいただく。
御田八幡神社は明治30年以降の名称だが、明治初期の神仏分離令以後は稗田神社、明治7年からは三田八幡神社と称していた。
徳川家康江戸城入城の際に、社殿を造営したという歴史ある神社である。
江戸八所八幡宮 御田八幡神社に掲載。
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名 称 |
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主祭神 |
誉田別皇尊 (ほんだわけのみこと)
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相殿 |
天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
武内宿祢命 (たけのうちすくねのみこと) |
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創 建 |
和銅二年(709) |
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社格等 |
旧郷社・延喜式内社 |
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鎮座地 |
東京都港区三田3-7-16
03-3451-4687 |
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最寄駅 |
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江戸八所八幡 御田八幡神社 |
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道往寺
どうおうじ高輪
御田八幡神社から第一京浜を品川方面に行くと、江戸三十三観音霊場の札所である道往寺がある。
意外と古い道往寺
創建は江戸時代の寛文年間(1661〜73)と古く、済海寺住職の隠居寺であったという。
民家のような本堂は、東京大空襲の戦火を免れたと言う建物で、本尊の阿弥陀如来を祀る。
また、かつては2つの札所を兼ねたことから、札所本尊が2体あり、そのまま江戸三十三観音の札所本尊になっている。
道往寺の詳細については「江戸三十三観音霊場 第27番 道往寺」に掲載。
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名 称 |
来迎山 道往寺 |
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本 尊 |
阿弥陀如来 |
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宗 派 |
浄土宗 |
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札 所 |
江戸三十三観音 第27番
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所在地 |
東京都港区高輪2-16-13
03-3442-5495 |
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最寄駅 |
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江戸三十三観音霊場 第27番 |
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泉岳寺
せんがくじ高輪
道往寺を出て南に向うと
泉岳寺の信号があり、右折して坂をのぼると左手に泉岳寺の参道がある。
道往寺の裏から出ても、NHK交響楽団のビルの先で同じ場所に出る。
曹洞宗江戸三箇寺
泉岳寺は青松寺(東京都港区)、総泉寺(東京都板橋区)とともに曹洞宗江戸三箇寺の一つで、曹洞宗関三刹の配下として曹洞宗の宗政を司り、江戸府内にある曹洞宗寺院を統括した寺院である。
また、境内には学寮があり、現在の駒澤大学へと発展していった。
第一京浜から坂を上がり切ると中門が建っている。
更に進んでいくと大きな山門がある。(写真上)
三間一戸の楼門は天保3年(1832)に再建されたもので、二階部分には十六羅漢が安置されている。
「泉岳寺」と書かれた扁額は、墨蹟研究者大野約庵の筆によるもの。
本堂
山門を抜けると広い境内の先に本堂が建っている。
入母屋造に唐破風の向拝を付した現本堂は、東京大空襲で焼失した旧本堂に替わり、昭和28年(1953)に落慶した鎌倉様式の建築である。
本尊の釈迦如来の他に、宗祖道元禅師、大石内蔵助の守り本尊摩利支天などが安置されている。
四十七士墓所
境内左手にある門を入ると四十七士墓所がある。
泉岳寺は浅野内匠頭と赤穂浪士が葬られていることで有名であり、毎年12月13・14日には義士祭が催される。
赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」もある。
四十七士墓所の門は、浅野家の鉄砲洲上屋敷(現聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものだそうだ。
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四十七士墓所の門 |
四十七士の墓碑 |
大石内蔵助良雄銅像 |
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名 称 |
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本 尊 |
釈迦如来 |
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宗 派 |
曹洞宗 |
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所在地 |
東京都港区高輪2-11-1
03-3441-5560 |
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拝 観 |
4〜9月 7:00〜18:00
10〜3月
7:00〜17:00 |
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最寄駅 |
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御朱印をいただく際、御朱印帳は必須。 |
高輪神社
たかなわじんじゃ高輪
泉岳寺交差点まで戻り、第一京浜を品川方面へ行くと、350mほどで高輪神社の入口に着く。
由緒
室町中期の明応年間(1492〜1501)に稲荷神社として創建され、当時高輪ケ原と称した当地高輪の総鎮守である。
昭和4年(1929)社名を稲荷神社より高輪神社に改称している。
現在の社殿は、昭和55年に鉄筋コンクリート造により再建した建物である。
当初の社殿は、弘化2年(1845)に大火により焼失、約20年の後に本殿が再建され、続いて幣拝殿を造立したとある。
主祭神は宇迦御魂神であるが、相殿神の誉田別命は、明治10年(1877)、現在の高輪三丁目で当時鵜来森と呼ばれていた地に鎮座していた鵜来森八幡を合祀したものである。
また、同じく相殿神の猿田彦神は、境内社の猿田彦神社を本殿再建の際に合祀したらしい。
聖徳太子を祀る
拝殿左手にある建物は、聖徳太子を祀る太子宮である。
寺院の境内に太子堂と称して聖徳太子を祀るのはよく見るが、神社に聖徳太子を祀るのは珍しいと思う。
自分の経験では、他の神社で見たことはなく、初めての経験である。
正面奥の高い位置に神殿が設けられ、手前右手には白木の神輿が「太子宮」の看板と共に置かれていた。
太子宮前の石門は、
弘化2年(1845)の大火から類焼を免れた建造物の一つで、関東大震災によるひび割れを修復した跡が伺われる。
太子宮の狛犬は、大正15年(1926)に奉献されたもの。因みに拝殿前の狛犬は、宝永6年(1709)奉献のものである。
力石
太子堂敷内にある力石は湊区の有形民俗文化財に指定されているもの。
五拾八貫目の文字が刻まれている。
港区では最重量級の力石らしい。
他にも石碑が立っているが、何なのかよく分からない。
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名 称 |
高輪神社 |
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主祭神 |
宇迦御魂神 (うがのみたまのかみ)
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相殿 |
誉田別命 (ほんだわけのみこと)
猿田彦神 (さるたひこのかみ) |
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創 建 |
明応年間(1492〜1501) |
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社格等 |
− |
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鎮座地 |
東京都港区高輪2-14-18
03-3441-2719 |
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最寄駅 |
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品川神社
しながわじんじゃ北品川
泉岳寺駅から京急で3つ目の新馬場で下車。
先ずは、第一京浜を渡り、北の天王と呼ばれる品川神社へ。
国道に面して長い石段があり、上った正面に社殿が建つ。
由緒
品川神社の創建は古く、文治3年(1187)と聞く。幾度と無く社殿は焼失したが、時の将軍により再建がなされるなど、徳川家の庇護を受け発展を遂げていった。
明治に入り、明治天皇より准勅祭神社に定められた。
旧社殿は東京大空襲の際も被災を免れたが老朽化が進み、昭和39年(1964)現在の社殿が再建された。
品川神社については、「東京十社巡り 品川神社」に掲載。
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名 称 |
品川神社 |
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御祭神 |
天比理乃命 (あめのひりのめのみこと)
素盞嗚尊 (すさのおのみこと)
宇賀之売命 (うがのめのみこと)
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創 建 |
文治3年(1187) |
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社格等 |
旧郷社 |
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巡 拝 |
東京十社巡り |
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鎮座地 |
東京都品川区北品川3-7-15
03-3474-5575 |
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最寄駅 |
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関連記事 |
東京十社巡り 品川神社 |
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養願寺
ようがんじ北品川
品川神社の石段を下って、前の国道15号を横断して新馬場商店街を旧東海道へ向かう。
かつて品川宿があった場所で、本陣跡は聖跡公園になっている。懐かしさの残る商店街を進むと左側に細い路地があり、その先に養願寺が見える。
養願寺の概要
養願寺は、「北品川の虚空蔵さん」として親しまれ、年2回開催される虚空蔵尊祭では参詣客で賑わう。
虚空蔵尊は十三仏の13番目の仏さまで、子供の「十三詣り」で参拝するのも虚空蔵尊である。
数え年13歳になると、万物の福徳と英知を授かるために、虚空蔵菩薩に参詣する行事である。
養願寺の創建は古く、正安元年(1299)と伝えられている。
本尊は木造虚空蔵菩薩像であるが、本尊脇に安置されている銅造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作で、観音・勢至の二菩薩を脇侍とした阿弥陀三尊の形をとっている。
また、隣接した部屋には、木造不動明王立像が、制叱迦童子と矜羯羅童子を脇侍とし安置されている。
これらの仏像は、品川区有形文化財に指定されている。
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名 称 |
明鏡山 善光院 養願寺 |
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本 尊 |
虚空藏菩薩 |
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宗 派 |
天台宗 |
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所在地 |
東京都品川区北品川2-3-12
03-3471-9224 |
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最寄駅 |
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一心寺
いっしんじ北品川
養願寺から再び路地を戻り、旧東海道を挟んだ反対側が「一心寺」である。
ほうろく灸
本堂を参拝したら、中で十数人が椅子に座って、何やら頭に皿を載せてもぐさを炊いている光景に出会ってしまった。
頭の上からもくもくと煙が出ている。異様な雰囲気に言葉が出なかった。
一心寺は素焼きの皿(ほうろく)を頭に載せて灸をすえる「ほうろく灸」で有名な寺院であった。
一心寺については「江戸三十三観音霊場 第30番」に掲載。
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名 称 |
豊盛山 延命院 一心寺 |
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本 尊 |
不動明王 |
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宗 派 |
真言宗智山派 |
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札 所 |
江戸三十三観音 第30番 |
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所在地 |
東京都品川区北品川2-4-18
03-3471-3911 |
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最寄駅 |
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江戸三十三観音霊場 第30番 |
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荏原神社
えばらじんじゃ北品川
一心寺を出て左へ。旧東海道を目黒川まで歩き、川沿いに右へ行くと荏原神社である。
由緒
明治8年、品川の総鎮守として崇敬されてきた品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をとり「荏原神社」に改称した。
明治元年、准勅祭社に定められたとあるが、東京十社巡りでは品川神社説を採用している。(遺恨ありそうな雰囲気)
天王祭
品川には二つの天王社があり、和銅2年(709)南品川(後に現在地へ遷座)に創建された品川大明神・天王社を「南の天王」と呼んでいる。
5月末頃開催される天王祭は、通称かっぱ祭りと呼ばれ、神輿を目黒川から船に載せ、お台場まで運び、海に下ろして渡御するという勇壮な祭りである。
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名 称 |
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御祭神 |
(たかおかみのかみ)
豊受姫之神 (とようけひめのかみ)
天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
須佐男之尊 (すさのおのみこと)
手力雄之尊 (てじからおのみこと)
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創 建 |
和銅2年(709) |
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社格等 |
旧郷社 |
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鎮座地 |
東京都品川区北品川2-30-28
03-3471-3457 |
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最寄駅 |
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