日本橋界隈
江戸東京寺社回廊
はじめに
日本橋界隈の寺社を巡ってみた。
日本橋といっても、日本国道路元標のある日本橋ではなく、もっと江戸下町風情の濃い人形町を中心とした小網町・蛎殻町・堀留町・小伝馬町・浜町など、住居表示に日本橋××のように”日本橋”が付く地域である。
この地域は、正月に日本橋七福神巡りで巡ってもよし、例大祭が多い5月に巡るのも楽しい。
「玉ひで」で親子丼を食べ、重盛の人形焼,甘酒横丁で玉子焼きを買って、豆乳ソフトを食べて…楽しみが盛りだくさんの日本橋寺社巡りはお奨め。
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大観音寺
おおがんのんじ日本橋・人形町
日比谷線人形町駅A2出口を出たら、人形町交差点方面へ100m程向うと、左手に細い路地があり大観音寺の石段が見える。
ビルの隣に、肩を窄めて寄添っているように建つ寺院なので、うっかり見逃しそう。
縁起
本尊 鉄造聖観世音菩薩は、そもそも鎌倉の新清水寺の本尊として奉安されていたものだという。
火災により新清水寺が消失するも、本尊は難を逃れ井戸の中に安置された。
元禄12年(1699)鶴岡八幡宮近くの鉄の井(くろがねのい)より掘り返され、鉄観音堂を立てて尊崇した。
鉄観音堂は鶴岡八幡宮の別当であったため、明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈運動によって観音像は投棄されたが、人形町の住人が現在地に勧請したといわれている。
大観音を拝観する
鉄造聖観音像は首だけの像だが、高さ170cmもある大きなもので、都の有形文化財に指定されている。
秘仏として普段は拝観できないが、毎月17日の縁日に開扉され拝観することができる。
本堂には聖観音の他に阿弥陀如来を祀っている。また、境内には馬頭観音を祀る堂や韋駄天尊や本願地蔵尊が祀られている。
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名 称 |
大観音寺 |
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本 尊 |
聖観世音菩薩 |
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宗 派 |
聖観音宗 |
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札 所 |
江戸三十三観音 第3番
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所在地 |
東京都中央区日本橋人形町1-18-9
03-3667-7989 |
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最寄駅 |
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関連記事 |
江戸三十三観音霊場 第3番 |
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小網神社
こあみじんじゃ日本橋・人形町
大観音寺からは徒歩で4分ほど。大観音寺の脇から裏へ抜けて、日本橋小学校脇の路地を入ると、ビルに挟まれた小さな小網神社が見えてくる。
由緒
小さな神社ではあるが、草創は古く、悪疫鎮静の神として小網稲荷大明神を祀ったのが始まりとされている。
明治維新後の神仏分離令によって、小網山稲荷院万福寿寺から寺社を分離し、小網稲荷神社となった。
現社殿は昭和4年(1929)に建立された建物で、東京大空襲を免れ、今日に至っているとのこと。
日本橋地区に残る唯一の桧造の神社建築物だそうだ。
東京銭洗い弁天
小網神社に祀られている市杵島比賣神(弁財天)は、万福舟乗弁財天と称し舟の上に乗った立像である。
もとは万福寿寺に安置されていた尊像だが、神仏分離令後に万福寿寺が廃絶となったため小網神社側に遷座されたそうだ。
万福・舟乗という名は、そうした事に由来するという。
境内に入ってすぐの所には「銭洗いの井」がある。この水で金銭を洗い清め、財布などに収めておくと財運を授かるという。
「東京銭洗い弁天」として人気を集めている。
向拝・神楽殿・手水舎 |
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社殿は昭和4年(1929)竣工の総檜造で、小じんまりはしているが、重厚な趣の神社建築である。
向拝の海老虹梁に施された昇り竜/降り龍は、社殿右側の養老の滝の彫刻と共に有名である。 |
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道路に面して建っている神楽殿も社殿同様昭和4年造営の建物で、共に中央区の文化財に指定されている。
狭い境内ではあるが、それなりに工夫された手水舎が建っている。 |
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名 称 |
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御祭神 |
倉敷魂神 (うがのみたまのかみ)
市杵島比賣神 (いちきしまひめのかみ) |
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創 建 |
文正元年 (1466) |
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社格等 |
旧村社 |
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巡 拝 |
東京下町八社福参り・日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋小網町16-23
03-3668-1080 |
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最寄駅 |
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茶ノ木神社
ちゃのきじんじゃ日本橋・人形町
日本橋小学校まで戻って右へ、更に左折して甘酒横丁交差点の1本手前の道を右に入ると茶ノ木神社の可愛らしい社殿が建っている。
豊富な種類の手作りサンドイッチで有名な、まつむらパン店の反対側にある。(写真下)
日本橋七福神巡りの正月以外は閑散としていて、甘酒横丁との格差に寂しい気もする。
由緒
由緒書によると、かつてこの地は下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷であって、この神社は守護神として祀られたものだそうだ。
社の周囲には茶の木が植えられていたことから「お茶ノ木様」と呼ばれ、茶ノ木神社の由来になったとの事である。
地下鉄日比谷線建設の際、御神体を一旦東伏見稲荷神社へ遷座し、地下鉄工事完了後に新社殿を再建して今日に至っているとの事である。
御祭神に倉稲魂大神を祀る伏見系の稲荷神社である。昭和60年(1985)に布袋尊を合祀して「日本橋七福神」に加わった。日本橋七福神で巡る神社は、水天宮を除く6社が小さな社殿の神社である。
手水舎は建っておらず、手水鉢が置かれている。
御朱印は正月の日本橋七福神巡り開催期間のみ境内でいただけるが、それ以外は水天宮の社務所でいただく。
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名 称 |
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御祭神 |
倉稲魂大神 (うがのみたまのおおかみ) |
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創 建 |
不詳 |
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社格等 |
− |
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巡 拝 |
日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋人形町1-12-10
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最寄駅 |
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水天宮
すいてんぐう日本橋・蛎殻町
茶ノ木神社を背に広い通りへ出ると、左手に水天宮交差点があり、その角が水天宮の境内である。
安産や子授かりの祈願や、お礼参りに訪れる参拝者が多く集まる水天宮は、東京の名所でもある。
特に戌の日は、拝殿や授与所には列が出来、その目的以外での参拝は肩身の狭い思いである。
由緒
水天宮は、文政元年(1818)久留米藩9代藩主有馬頼徳が赤羽根(港区)の久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請したのが始まりである。
明治4年(1871)、藩邸の移転に伴い青山の中屋敷へ遷座し、翌年、有馬家下屋敷のあった現在地に移転した。
水天宮は有馬家の崇敬に支えられ今日に至っている、と言っても過言ではない。
同じ町内に、”有馬”の名が残る明治6年(1873)設立の「中央区立有馬小学校」があるのも納得できる。
現在の社殿は昭和42年(1967)に落慶した権現造の美しい建物である。
境内は、大きな二階建て構造の二階部分に位置し、一階は40台ほどが駐車可能な有料駐車場になっている。
境内の左側奥にはエレベータが設置され、ベビーカーでの参拝にも配慮している。
社殿に向って右側に建っている建物は、額殿と呼ばれ、奉納された額、絵馬、古写真などが掲げられている。
境内社
境内には5社が祀られている。
社殿の左隣に建つ紫灘神社(したんじんじゃ)は、幕末の志士である真木和泉守保臣を祀る。真木和泉は久留米水天宮22代宮司。
その手前に火風神社・秋葉神社・高尾神社を祀る社がある。
火風神社は、水天宮の「水」に因み、火と風の神様を祀ってあるそうだ。
秋葉神社は火防の神を祀る神社。
宝生弁財天
境内右側の額殿と社務所の間に建つ社は、宝生弁財天で、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を御祭神とする。
赤羽根の有馬家上屋敷に祀られていた弁財天を水天宮に祀った。
毎月5日と巳の日に開扉され、御神像を拝観できる。
日本橋七福神の一つで、正月は七福神巡りで賑わう。
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名 称 |
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御祭神 |
天御中主大神 (あめのみなかぬしのおおかみ)
安徳天皇 (あんとくてんのう)
建礼門院 (けんれいもんいん)
二位の尼 (にいのあま) |
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創 建 |
文政元年(1818) |
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社格等 |
無格社 |
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巡 拝 |
東京下町八社福参り・日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋蠣殻町2-4-1
03-3666-7195 |
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最寄駅 |
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松島神社
まつしまじんじゃ日本橋・人形町
水天宮角の交番前の横断歩道を渡り、重森の人形焼の前を右へ、2つ目の路地を入るとすぐに松島神社がある。
ビルの1階奥に社殿が建っているので、鳥居がなかったら見落としてしまう。
由緒
由緒書を見ると、昔この辺りが入り海であった頃、松の木が鬱蒼と生えた小島があり、柴田家の祖先が下総國から小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されているとある。
天正13年(1585)、住民の希望に沿い邸宅を公開し参拝の自由を許したのだそうだ。
島内に松の木が茂っていたことから松島稲荷大明神と称されていた。
大正5年(1916)、松島神社と改称された。
この付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、全国から工匠が集められ、居住するに至った。
工匠たちは、夫々の故郷の神々の合祀を願い出たために、御祭神が14柱にも及ぶようになった。
大鳥神社
鳥居を見ると、(かつては朱色ではなかったと思うが....。)神額には「松嶋神社」と書かれてあるが、提灯の文字は「松島神社」である。また、右側の提灯は「大鳥神社」となっている。
御祭神14柱内に天日鷲神(大鳥大神)を祀ることから、人形町大鳥神社とも通称され、十一月酉の日は、「お酉さま」で賑わう。
鳥居を抜けると右手に手水舎が建ち、更にその奥に社殿が建っている。というか、ビルの1階部分に収納されているというイメージである。
縁起物の熊手が大鳥神社に因んでいる。
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名 称 |
松島神社 |
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御祭神 |
稲荷大神 (いなりのおおかみ)
他13柱 |
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創 建 |
不詳 |
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社格等 |
旧村社 |
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巡 拝 |
日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋人形町2-15-2
03-3669-0479 |
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最寄駅 |
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末廣神社
すえひろじんじゃ日本橋・人形町
松島神社の前を北へ進み、甘酒横丁から3つ目の十字路を右へ行くと、末廣神社はある。
由緒
由緒書によると、末廣神社は江戸時代初期の元和3年(1617)から明暦3年(1657)まで、吉原がこの地にあった当時、地主神、産土神として信仰されていた。
明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四町の氏神として信仰されていたとある。
延宝3年(1675)、社殿修復の際、中啓(扇の一種で、閉じた時に先が半開きになるもの。末広とも言う)が発見されたのが「末廣」という社号の起源になったそうだ。
小じんまりとした境内は、玉垣で囲い、敷石と砂利が敷詰められ、手入れの行届いた庭木等々、神社としての風格をもった境内である。
手水舎が設けられ、小さな社殿ではあるが、本坪鈴が3つも付いている。
社殿に併設された授与所の小さな窓口が、何とも可愛らしさを感じる。
参拝した時は、授与所が不在であったが、右隣にある社務所のチャイムを鳴らすと、中から奥様が出てこられた。
御朱印はここでいただく。
書いている間に、氏子町や例祭の事を伺うと、来週は当社も例祭だが、陰祭りなので神輿の渡御はありません。
今日は椙森神社の例大祭で、大神輿の渡御がありますよ。
まだ宮入前だと思うので、町内のどこかにいる筈です。行ってご覧になられたら.....という事で早速出向いた。
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名 称 |
末廣神社 |
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御祭神 |
宇賀之美多摩命 (うがのみたまのみこと)
武甕槌命 (たけみかづちのみこと) |
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創 建 |
江戸時代初期 |
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社格等 |
無格社 |
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巡 拝 |
日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋人形町2-25-20
03-3667-4250 |
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最寄駅 |
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笠間稲荷神社東京別社
かさまいなりじんじゃとうきょうべっしゃ日本橋・浜町
末廣神社の前の道を更に進み、清洲橋通りの1本手前の一方通行路を左折すると、左手にまたまた小さな笠間稲荷神社の社殿が見えてくる。
日本三大稲荷の一つ、茨城県笠間市に鎮座する笠間稲荷神社の東京別社である。
由緒
そもそもこの地は、五代将軍徳川綱吉の寵臣牧野成貞公の拝領地の一部であり、邸内には祈願所として稲荷社が祀られていた。
延享4年(1747)に牧野公が笠間藩主となったことが縁で笠間稲荷神社への信仰を篤くし、8代藩主牧野貞直公が笠間稲荷より御分霊を勧請し、この社に合祀したのが起源とされている。
小さい境内ながら入口は2ヶ所
上の写真は、清洲橋通りと並行している路地から撮ったものだが、鳥居の先に社殿が相対して見える。
社殿左側に見える窓は、社務所の受付になっており、神札等の授与はここから。御朱印もこの窓口でお願いする。
右の写真は、久松警察署側の入口で、社票が立ち小さな鳥居の先には参道が続いている。
鳥居を抜けた先には可愛らしい手水舎がある。こちらが正規の入口かもしれない。
キツネのピラミッド
この参道の突当りには、稲荷社のシンボルでもあるキツネさんが山盛りに置かれている。
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名 称 |
笠間稲荷神社東京別社 |
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主祭神 |
宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)
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創 建 |
安政6年(1859) |
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社格等 |
− |
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巡 拝 |
日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋浜町2-11-6
03-3666-7498 |
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最寄駅 |
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椙森神社
すぎのもりじんじゃ日本橋・堀留町
笠間稲荷神社から見て椙森神社は、ほぼ西方向に位置するが、道路は東西に対し45度傾いた形で井桁状に走っている。
従って、久松警察署前から堀留町まではジグザクに進んでいく事になる。
人形町通りから西側へ1本入った道沿いに鎮座している。白塗りの社殿・神楽殿が印象的である。
由緒
創建は古いらしく、看板には平安時代云々との記載があった。また、江戸時代には江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれていたとも書かれてある。
火災による焼失・再建を繰返しており、現在の社殿は関東大震災で全焼の後、昭和6年(1931)、耐震構造の鉄筋造で再建された建物である。
向拝内もガラス戸を除いて真っ白。裏に回って本殿を見たが、当然白かった。
冨塚
手水舎の隣に、当社で行われた富興行を偲んで建てられた富塚が立っている。
当初の造立は大正8年(1919)であったが関東大震災で倒壊し、現在ある富塚は昭和28年(1953)に再建されたものである。
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名 称 |
椙森神社 |
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御祭神 |
伍社稲荷大神
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創 建 |
安政6年(1859) |
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社格等 |
旧村社 |
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巡 拝 |
日本橋七福神 |
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鎮座地 |
東京都中央区日本橋堀留町1-10-2
03-3661-5462 |
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最寄駅 |
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今日は例大祭。 |
大安楽寺
だいあんらくじ日本橋・小伝馬町
人形町通りを小伝馬町方面に向い、小伝馬町交差点の更に道一本先を左に入ると大安楽寺がある。
高野山真言宗の準別格本山で、本尊に弘法大師を祀る。
門を入った正面に建つ本堂は、鉄筋コンクリート造りに、大きな唐破風の向拝が目立っている。
開創当時の本堂は、関東大震災で消失してしまった。現在ある建物はその後に再建されたもので、東京大空襲の被災を免れたという時代を経た建物である。
大安楽寺一帯は、江戸時代の伝馬町牢屋敷処刑場跡として都史跡に指定されており、境内に「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑が立っている。
吉田松陰もここで処刑されている。
延命地蔵尊
処刑場跡の石碑が立つ左側に安置されている石仏は延命地蔵尊で、吉田松陰などの勤皇の志士達処刑者の慰霊と平和祈願の為に建てられた地蔵尊坐像である。
弁財天
境内左端に建つアーチ型の堂は「江戸八臂弁財天」で、江島弁財天と一緒に造られた弁財天三体の内の一つとされている。
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名 称 |
新高野山 大安楽寺 |
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本 尊 |
弘法大師 |
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宗 派 |
高野山真言宗 |
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札 所 |
江戸三十三観音 第5番
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所在地 |
中央区日本橋小伝馬町3-5
03-3661-4624 |
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最寄駅 |
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関連記事 |
江戸三十三観音霊場 第5番 |
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身延別院
みのぶべついん日本橋・小伝馬町
大安楽寺の隣にあるお寺が身延別院。
大安楽寺と並んで入口があり境内へ入れるが、西側に回ったところにある門が正規の入口である。
門柱には「身延別院」の表札が掛かっている。
日蓮宗の総本山が身延山久遠寺であることを知らない人には「身延別院」の意味が分からないかも知れない。
縁起
正面に建つ本堂は、関東大震災で焼失した後、昭和4年(1929)に再建された建物で、東京大空襲による類焼を奇跡的に免れたという。
堂内に安置されている日蓮聖人像は、身延山久遠寺の宝蔵に置かれていたもので、東京に開設された日蓮宗大教院を経由して、別院開創時に奉安された尊像である。
油かけ大黒天神
本堂前左手に祀られている大黒天は「油かけ大黒天神」と呼ばれ、油をかけてお祈りすると、商売繁盛、開運、安産に御利益があるとされている。
他にも、浄行菩薩を祀るお堂がある。浄行菩薩は法華経で説かれている上行,無辺行,浄行,安立行の四菩薩の内の一菩薩である。
また、光明稲荷大明神を祀る社もある。いわゆるお稲荷さんで、伏見稲荷から分祀、勧請されたのだという。
手狭に感じる境内に色々盛り込んだ感じである。
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名 称 |
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本 尊 |
− |
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宗 派 |
日蓮宗 |
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札 所 |
−
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所在地 |
東京都日本橋小伝馬町3-2
03-3661-3996 |
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最寄駅 |
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薬研掘不動院
やげんぼりふどういん東日本橋
身延別院のある小伝馬町駅からは約15分ほどの道のり。
東日本橋交差点の先に薬研堀不動院がある。
初めてなら事前に地図等で確認しておかないと迷う事になる。
薬研堀不動院は、いわゆる山門があって、参道が続いて....というイメージはなく、街角にいきなり八角大宝塔が建っていて、石段をのぼって参拝する。
薬研掘不動院は関東三十六不動尊霊場や御府内八十八ヶ所霊場の札所にもなっており、小さいお堂ながら参詣客は多い。
歳の市
12月28日に「納めの歳の市」が立つ。
歳の市は12月14日の深川八幡(富岡八幡宮)から始まり、浅草寺、神田明神…と漸次市が開催され、最後が薬研掘不動院の納めの歳の市で締めくくられる。
歳の市は本来、しめ飾りや神具を売る露店が立並ぶのだが、近年は日用雑貨品、食べ物を売る店が多くなってきている。
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名 称 |
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本 尊 |
不動明王 |
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宗 派 |
真言宗智山派 |
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札 所 |
関東三十六不動 第21番
御府内八十八ヶ所 第23番 |
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所在地 |
東京都中央区東日本橋2-6-8
03-3866-6220 |
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最寄駅 |
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関連記事 |
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