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滋賀県大津市の名刹及び天台宗総本山延暦寺と由緒ある神社を、2日間で巡拝した。
拝観した寺院はすべて有料。鎌倉などに比べると遥かに高額。駐車料金を含めると結構掛かった。
1日目は建部大社から近江神宮までを巡り、大津に宿泊した。
今回は、旅程の都合上、日吉大社と西教寺・滋賀院門跡には立寄れなかった。
近江国一宮の建部大社は、名神高速瀬田東ICから県道16号を通って5分ほどのところにある。
ナビの設定を単純に建部大社に合わせると裏側に誘導され、車止めがあって駐車場へ行けない。境内を目の前にして2度も引き返した。
県道16号沿いに建部大社と掘られた石標が立ち、そこを左分岐すると参道である。一之鳥居を抜けた先の左手に駐車場がある。
駐車場から神門前に出られるが、一旦道路に出て、参道を歩いた方が参拝の気分が高まる。
建部大社の扁額が掲げられた石造の一之鳥居から続く参道は、両側に石灯籠が立ち並びその途中、およそ100m程行くと左へ折れる参道が現れ、二之鳥居から神門へと続いている。
参道の両側には奉納された灯篭が並んで、更に杉や松並木になっているが、よく見ると左側の松は柵より内側へ引っ込んだ位置に植えられている。後から参道を拡幅したのだろうか。
景行天皇46年神勅により、景行天皇の皇子である日本武尊を祀ったのが草創といわれており、天武天皇4年(675)に現在地へ遷座したと伝承される歴史の深い神社である。
神門
参道の正面に神門がある。
?葺の切妻屋根を乗せた三間三戸の立派な神門で、そこから先は塀によって仕切られ神域であることを印象付けている。
神門をくぐって中に入ると、大小様々な堂宇が建っていた。
三本杉と拝殿
神門の先には拝殿が建っているが、その右手前に注連縄が巻かれた杉の木がある。
三本杉と称し、天平勝宝7年(755)大己貴命を権殿へ奉祀した際、一夜にして成長したと伝わる御神木だそうだ。
三本杉だが実際には4本あり、内1本は途中で切断されている。何らかの原因で切断したのだろうけど、あくまでも三本杉に拘ってのことか、隣に若木が植えられている。
拝殿は、見る角度によって縦長に見えるが、三間四方の入母屋造で妻入りで建てられている。向拝を設けず、参拝用に屋根だけの小屋が付けてある。
近畿地方に多く見られる、正方形で四方を吹き放ちとした形式ではなく、硝子戸を建付けてある。
本殿と権殿
拝殿の奥には社殿が2棟並んで建っている。
左側の本殿と右側の権殿である。本来権殿は社殿を造営・修理する際、神体を仮に奉安する場所であるが、ここでは大己貴命が祀られている。
本殿 権殿境内社
境内には、摂社4社、末社8社が鎮座している。計12社の内、摂末社8社が拝殿両脇に建ち並んでいる。
何れも一間社流造で、摂社の方が一回り大きく造られ、日本武尊の両親・妃・子を祀り、末社には日本武尊の家臣が祀られている。
他4社は境内の木立に覆われた中に建っている。
拝殿左側(本殿側)の摂末社 拝殿右側(権殿側)の摂末社摂社:聖宮神社 祭神:景行天皇
摂社:大政所神社 祭神:播磨稲日大郎姫命
末社:行事神社 祭神:吉備臣武彦
末社:蔵人頭神社 祭神:七掬脛命摂社:藤宮神社 祭神:布多遅比売命
摂社:若宮神社 祭神:建部稲依別命
末社:弓取神社 祭神:弟彦公
末社:箭取神社 祭神:石占横立 他3柱
八柱神社 |
武富稲荷神社 |
大野神社 |
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本殿に近い側から、八柱神社・稲荷神社・大野神社の順に鎮座している。 大野神社は建部大社がこの地に遷座される以前から当地の地主神として祀られていた神社で、祭神に草野姫命が祀られている。 桧山神社遥拝所は、境外末社の桧山神社を遥拝する社殿。 菊化石は菊の形が浮び上がっているが、化石ではなく自然にできた模様だとか....。 |
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桧山神社遥拝所 |
菊化石 |
建部大社 日本武尊 (やまとたけるのみこと) … 本殿大己貴命 (おおなむちのみこと) … 権殿 景行天皇46年 旧官幣大社・別表神社・式内:名神大 滋賀県大津市神領1-16-1
077-545-0038授与所 有り 無料建部大社 近江国一之宮
次は 石山寺へ で約7〜8分
建部大社から瀬田唐橋を渡ってすぐの唐橋西詰交差点を左折。道なりに来ると右手に駐車場がある。建部大社から約7〜8分ほど。
石山寺は東寺真言宗の寺院で、本堂が国指定天然記念物の珪灰石という巨大な岩盤の上に建っていることから寺名の由来になっている。
聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金を施すために大量の黄金を必要としていた。黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として寺院を開創した
東大門から参道へ
石山寺へはここから入る。西国十三番石山寺と刻まれた先に、東大門と呼ばれる山門が建つ。
三門一戸の入母屋造りで、大きくせり出た軒が重厚な印象を与えている。 柱には千社札が貼られ汚いが、両脇に安置されている仁王像は素晴らしい。
国指定重文の東大門は、建久元年(1190)に源頼朝の寄進によって建立されといい、後の慶長年間(1596〜1615)に大修理が施されているという。
東大門を抜けると、真直ぐに石畳が敷かれた参道が続いている。
参道の両脇には塔頭が並び、右手には大黒堂も建っている。
訪れたのは新緑の季節であったが、参道にはサクラ、カエデが植えられており、初春や秋には美しい彩が堪能できるのであろう。
参道の奥に拝観受付があり、拝観料を支払って中へと入る
観音堂
拝観受付の先で参道は石段になり、諸堂が建ち並ぶ一段高い位置へ上っていく。
先ず、右手に出てくるのが西国三十三観音の札所本尊の観音像を祀る「観音堂」である。
入母屋造りの堂宇の中には、黄金色に輝く三十三体の観音像が安置されていた。
観音堂 堂内の観音像
毘沙門堂
観音堂の左隣に建つのは「毘沙門堂」で、桟瓦葺に宝珠を載せた宝形造りの堂宇は、安永2年(1773)に建立され、現在は県指定有形文化財となっている。
須弥壇には、本尊として重文の兜跋(とはつ)毘沙門天及び吉祥天・善膩師童子を祀ってる。
兜跋毘沙門天とは、地天女の両掌の上に立ち、二鬼を従え宝塔を捧げる毘沙門天像をそう呼んでいる。
蓮如堂
毘沙門堂の向かいに建つのが重文指定の蓮如堂と呼ばれる建物で、慶長7年(1602)に三十八所権現社の拝殿として建立され、明治以降は蓮如上人6歳の御影や遺品を祀る堂として使用されていると案内板に記載してある。
よく見ると堂宇は硅灰石の崖にせり出して建っているのがわかる。
桁行五間、梁間四間の入母屋造りで、文化8年(1811)に桟瓦葺に改造したそうだ。
正面一間通りは吹き放し、右側の一間通りを広縁とし、間口三間、奥行き四間を建具等で仕切った独特の平面をしている。
本堂
硅灰石の前を左に上がると国宝の本堂が建っている。
本堂は滋賀県下最古の木造建築物といわれ、正堂(内陣)は平安時代中期の建築で、承暦2年(1078)の火災焼失後、永長元年(1096)に再建されたという。
礼堂(外陣)は懸造で慶長7年(1602) 淀殿の寄進により増築されたといわれ、正堂と相の間で繋がっている。
礼堂の舞台に立って見ると、周りに樹木が茂っているせいか、余り高さを感じない。東大寺二月堂のようではなく、上野の清水観音堂に近い景色だ。
内陣に安置される本尊の如意輪観世音菩薩は日本で唯一の勅封の秘仏で、開扉は33年毎或いは天皇の即位の翌年とのこと。尚、内陣は別途300円を払って拝観することができる。
相の間には、「源氏の間」と呼ばれる紫式部が『源氏物語』を書いたとされる部屋がある。中には紫式部が執筆している人形が置かれているが、どう見ても十二単を着たマネキンが習字の練習をしているようである。
三十八所権現社本殿
本堂を出て左へ上って行くと、国指定重文の三十八所権現社本殿が硅灰石の上に建っている。
檜皮葺の流れ造りで、一間社という小さなお堂だが、慶長7年(1602)に拝殿であった下の蓮如堂と共に建立されたものであると案内板に記されていた。
石山寺の鎮守社であるが、神仏習合期ではよくある話だ。吉野三十八所や日吉大社にも出てくる三十番神なども神仏習合の信仰である。
経蔵
三十八所権現社の先にある石段を上がると、更に1段高い場所に国指定意重文の経蔵が建っている。 桁行三間、梁間二間の桟瓦葺切妻造で、奈良正倉院でお馴染みの高床式の校倉構造の建物である。
周囲に柵があるわけでもなく、案内板を読まない限り、横目で見ながら通り過ぎてしまう感じの建物である。
桃山時代後期の建立とされ、県下では数少ない校倉造でしかも最古というから....改めてよく観察してしまった。
多宝塔
経蔵の前を通り、更に石段を上がると、国宝の多宝塔が建っている。
参道から最初の石段を上ってくると、硅灰石の上で木立に見え隠れする多宝塔である。
源頼朝の寄進で建久5年 (1194) に建立された日本最古の多宝塔とある。
檜皮葺で高さ17.2m。初重は高欄を付した縁を巡らせ、中央間板唐戸、脇間連子窓となっている。
組物は初重が出組、二重が四手先組物とし、軒は各重二軒繁垂木を用い、四隅には風鐸を付けている。
初重に比べ二重が細く、日本三大多宝塔の一つといわれる程に美しい。
多宝塔とは初重平面が方三間で、二重平面が円形の裳階付単層塔といい、初重平面が方五間の塔を大塔として区別している。また、初重内部には須弥壇を設け、仏像を安置するのが原則とされている。
石山寺多宝塔の須弥壇にも、国指定重文の快慶作大日如来坐像が安置されている。
月見亭
多宝塔の先を行くと、松尾芭蕉縁の茶室芭蕉庵に続いて「月見亭」が崖っぷちに建っている。ここは近江八景の一つ「石山秋月(いしやまのしゅうげつ)」として有名な場所であり、観月の名所だとか。
後白河上皇の行幸に際して建てられたといい、明治から昭和の各天皇が行幸した際の玉座になったそうだ。
石山寺の展望台という事でベンチなども設置されているが、目の前の木立が大き過ぎて瀬田川の一部しか見ることができなかった。ただ、桜の木が多いのでお花見には良いかも。
鐘楼
再び多宝塔から石段を下りて経蔵の前へ戻り、今度は左手の石段を下りると国指定重文の鐘楼が建っている。
鎌倉時代後期に建てられた桁行三間,梁間二間の袴腰付の堂で、檜皮葺、入母屋造のどっしりとした鐘楼である。
中に懸けられている梵鐘も国指定重文で平安時代の作といわれている。
御影堂
鐘楼の先から硅灰石のごつごつした岩肌をぬって下へ降りてくると、毘沙門堂の脇へ出てくる。
石段を下りた左手に建つのが2008年に国指定重文となった御影堂である。
三間四面の檜皮葺宝形造で、宝珠を載せ高欄を付した縁を巡らせ、背面に一間の張り出しを設けてある。
内部は後方中央を囲って内陣とし、須弥壇を設けてある。
須弥壇中央には、真言宗の開祖弘法大師、右側に石山寺開基の良弁僧正、左側に内供淳祐の遺影(御影)を祀っている。
石山寺は東寺真言宗の大本山として見どころの多い寺院であった。
石光山 石山寺 如意輪観世音菩薩 東寺真言宗 大本山 滋賀県大津市石山寺1-1-1
077- 537-0013本堂内納経所 600円 8:00〜16:30 入山16:00まで
内陣拝観料 500円 有り 600円大本山 石山寺 公式ホームページ
次は 園城寺へ、その前にランチ で約20分 |
石山寺をゆっくり観た後は大津湖岸なぎさ公園でランチ。 なぎさの公園の「打出の森」には可愛らしい4件のカフェ&レストランが並んでいる。 その中で、イタリアンの「ANCHOVY(アンチョビ)」に立寄った。 |
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Bランチ : 前菜盛り合わせ、パスタ、パン、サラダ、デザート、コーヒーor紅茶 | |||||||
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昼食後 園城寺(三井寺)へ で約8分 |
なぎさ公園から三井寺はすぐだ。
島ノ関西を右折し、観音寺交差点を左折し道なりに進めば三井寺に出る。
園城寺は通称三井寺と呼ばれる天台寺門宗の総本山である。
三井寺と称する理由は、天智・天武・持統天皇の三帝誕生の際、産湯に用いられたという霊泉があり「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来するとパンフに記載されてあった。
園城寺でもいいとは思うんだけど.....。
比叡山延暦寺とは不仲だった様で、10世紀頃から対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされるという事件が度々起きている。
史実からの印象では、霊験あらたかな三井寺を妬んでいたのかどうかは分からないが、比叡山の宗徒は仏教徒らしからぬ暴徒に思えてくる。
石山寺同様、国宝・重文の多い寺院なので、時間を掛けて拝観することにした。
大門(仁王門)
駐車場から西へ向うと国指定重文の大門が構えている。
檜皮葺入母屋造、三間一戸の楼門で、宝徳4年(1542)に造られたという、見るからにかなりの古さが伺える門である。
そもそもは、天台宗の常楽寺にあった門で、秀吉が伏見城に移したものを、慶長6年(1601)徳川家康が現在地に移築、寄進した。
蟇股の彫刻や組物が見事で、歴史を感ずるものがある。
拝観受付を通るよう大門は柵で塞がれている。
釈迦堂(食堂:じきどう)
大門を入ってすぐ右手に建つのが室町中期に建立された国重文の釈迦堂(食堂)である。
桁行七間、梁間四間の檜皮葺入母屋造で、正面一間が吹き放しになっていて、中央に唐破風の向拝を付してある。
現在は釈迦堂となっているが、建立当初は食堂として建立されたものらしい。
食堂(じきどう)は仏教用語で、修行僧が食事をする堂宇を差し、本尊が祀られている。禅宗でいう「僧堂」と同様のはたらきをもっている。
三井寺食堂も須弥壇が設けられ、清涼寺式釈迦如来像を安置しているので「釈迦堂」と呼ばれている。
金堂
再び大門前まで戻り、奥へ進むと二十数段の石段があり、その上に国宝の金堂(本堂)が建っている。 七間四面の檜皮葺入母屋造で、三間の流向拝を付してある。床は高く、高欄を付した縁を巡らせている。
現在の金堂は慶長4年(1599)に再建された建物である。
堂内に上がると、内部は外陣,中陣,後陣に区分され、更に中陣は内陣と脇陣に区分されている。内陣は一段低い土間に設けられているが、 これは、延暦寺根本中堂に見られるように天台系本堂建築の特徴といえる。
三井寺本尊の弥勒菩薩も金堂に安置されている。
鐘楼
金堂と同じ平面に建つ鐘楼は、桁行二間、梁間一間の檜皮葺切妻造で、慶長7年(1602)に造立され、昭和42年(1967)6月国重文に指定された。
よく見かける鐘楼とは異なり、板張の腰壁を設けその上を格子状としている。遠目では鐘楼とは思えない建物である。
中に吊るされている梵鐘は総高208cm、口径124.8cmと大きく、慶長7年(1602)に鋳造されたもので、近江八景の一つ「三井晩鐘(みいのばんしょう)」として親しまれている。
霊鐘堂
金堂を後に西側の小高い場所へ行くと「霊鐘堂」という堂が建っている。
堂の中には国指定重文の「弁慶の引き摺り鐘」といわれる梵鐘と「弁慶の汁鍋」が置かれている。
弁慶の引き摺り鐘は、延暦寺との抗争で、延暦寺の僧兵「弁慶」がこの鐘を比叡山へ引き摺って持ち帰ったという話があり、その時できた傷痕が残っているんだとか。
2,250kgもある鐘を引き摺る〜?谷底へ投げたぁ? 話としては面白いけど、鋳造時に出来たんじゃないの? それとも、焼け討ちに遭った時の熱で変形したんじゃないのって思ったのは自分だけか....。
一切経蔵
霊鐘堂の先には国指定重文の一切経蔵が建っている。
檜皮葺の宝形造で、裳階を付けているので二重に見えるが中に入ると一重であるのが分かる。
室町中期の建築だが、慶長7年(1602)に山口県の国清寺にあったものを、毛利輝元によって移築されたと記載してある。
内部には一切経を納めた八角形の輪蔵が置かれている。
色々な寺院で輪蔵を見るが、三井寺のは扉が無いものの、屋根の部分に千鳥破風が付けられているのは珍しい。
過去拝観した中で、一番印象に残っているのは飛騨安国寺の輪蔵である。さすがに国宝だけのことはあった。
唐院
一切経蔵先の小さな橋を渡ると三重塔が建つ場所に出る。
塀に囲まれた区画は「唐院」と呼ばれ、宗祖智証大師円珍和尚の廟所であり、灌頂(密教の儀式)の道場として山内で最も重視されている区域である。唐院には三重塔、大師堂、灌頂堂、長日護摩堂などが建ち、手前には柵が施され一般拝観者は諸堂に近づくことができない。
三重塔
室町時代初期の建築で、国重文に指定されている。建立当初は大和の比蘇寺の塔であったが、慶長2年(1597)秀吉が伏見城に移築したものを、慶長5年に徳川家康が三井寺に再移築し寄進したといわれている。
どうも、大門の件といい、秀吉は欲深い男に思える。
灌頂堂(かんじょうどう)
五間四面の檜皮葺入母屋造で、正面に一間の唐破風を付し低い縁を巡らせてある。
彫物とかは無く簡素な堂宇である。
灌頂の道場として、また大師堂の拝殿にもなっている。
昭和42年(1967)国重文に指定されている。
ここから大師堂を見ることはできなかった。
次は微妙寺に向うが、唐院から門を出て唐院の参堂を行くことになる。裏口から入って正門から出るイメージだが、拝観順路によるとこうなるのだ。
唐院の参道は両側に石燈籠が立並び、重要拠点である唐院へ向う雰囲気を持っている。
微妙寺
唐院参道を出ると金堂から観音堂に向う参道に出る。その参道が左に折れる場所に微妙寺が建っている。
微妙寺は園城寺五別所の一つで、本尊に国重文の十一面観音菩薩を祀っている。
別所とは、衆生救済の為、境内周辺に設けられた園城寺の別院で、当初は水観寺・微妙寺・常在寺・尾蔵寺・近松寺の五ヶ寺あることから五別所と呼んでいる。このうち現存するのは近松寺(こんしょうじ)のみで、常在寺・尾蔵寺は廃寺となり、微妙寺と水観寺だけが園城寺の一堂として寺名を残しているに過ぎない。
本尊の十一面観音立像は尾蔵寺の旧本尊と伝えられ、平安時代の作で像高81.8cmと比較的小柄な観音像で、湖国十一面観音霊場第1番札所の札所本尊でもある。
厨子の中に安置されていて、土日祝に開扉され拝観できる。
観音立像は細身ですらっとしているのが多いが、この観音さまは五頭身ほどで肉付きがよく、腹もメタボっぽい日本人的体型をしている。右手を与願印のように垂らし、左手は親指と中指で輪を結んでいる。よく見る十一面観音の左手には花を差した水瓶を持っていることが多いが...。
微妙寺から観音堂へ向う参道の傍らに「衆宝観音」が祀られていた。
衆宝観音は三十三観音の一つで、羅刹の難を救う観音さまとして信仰されている。
観音堂
金堂から続く参道はここで突き当たり、右に観音堂へ上がる石段があり、上は平場が広がっている。ひと際大きな堂宇が観音堂である。
西国三十三ヶ所の第14番札所になっているので参拝者が多い。
観音堂は間口9間、奥行5間の二重入母屋造で、元禄2年(1689)に再建された建物だそうだ。
祀られている本尊の木造如意輪観音坐像は平安時代の作で、国指定重文である。
他に観音堂に安置されている像高90cmほどの木造愛染明王坐像も平安時代の作で、如意輪観音同様国指定重文である。
観音堂の右手前には、間口3間、奥行2間の宝形造「百体堂」が建っている。内部には正面に西国三十三観音、右側に坂東三十三観音、左側に秩父三十四観音の札所本尊100体が安置されている。
百体堂の隣には、嘉永3年(1849)に建立された一間四面、入母屋造の観月舞台が建っている。(写真右端、柵や幟で見え辛い)
観音堂の一角にある茶屋で名物の「三井寺力餅」を食べた。きな粉が口の中に充満して息ができない。
驚きの銘菓であった。「冷やし飴」を一緒に頼んでおいてよかった。
「葛きり」も食べたが、意外とさっぱりで美味しかった。
観月舞台 鐘楼 琵琶湖を一望
水観寺
観音堂の石段を下り、更に緩やかな石段を下りていくと左手に水観寺の境内が広がっている。
水観寺は微妙寺と同様に園城寺別所の一つで、長久元年(1040)、明尊大僧正にる創建である。
正面四間、奥行五間の入母屋造の本堂は、明暦元年(1655)に再建された建物で、昭和63年(1988)に現在地の園城寺内へ移築された。
外陣を開放し、内陣には薬師如来、脇侍に日光・月光菩薩を置く薬師三尊像と十二神将が安置されている。
薬師如来は西国薬師霊場 第四十八番札所の札所本尊である。
護法善神堂
水観寺を出て参堂を左へ進むと視野が開け広い空間に出る。左手には放生池があり、石の太鼓橋が架かっている。
橋の先は広場になっており、その先に木立に覆われて堂が建っている。
この堂は「護法善神堂」といって園城寺の守護神を祀る堂である。本尊は護法善神として鬼子母神を祀っている。
太鼓橋の先は規制があって立入ることはできない。
参道の先は駐車場で、三井寺を一巡りしたことになる。
長等山 園城寺(ながらさん おんじょうじ)三井寺・正法寺 弥勒菩薩 天台寺門宗 総本山 西国三十三所 第14番
近江西国三十三所 第5番
湖国十一面観音霊場 第1番(微妙寺)
西国薬師霊場 第48番 (水観寺)
滋賀県大津市園城寺町246
077-522-2238各諸堂朱印所 600円 8:00〜17:00 有り 500円三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)
園城寺で戴いた御朱印 金堂 釈迦堂 観音堂 微妙寺 水観寺 本尊 弥勒菩薩 釈迦如来 西国三十三所 14番 湖国十一面観音 1番 西国薬師 48番
圓満院門跡へは で約3〜4分 |
三井寺大門前の道を右へ行くと左手に圓満院門跡がある。 歩いてもすぐなので、車は三井寺の駐車場へ置いたまま。
圓満院門跡は、寛和3年(987)村上天皇の第三皇子悟円法親王により開創された寺院。
「門跡」とは、寺格の一つで皇族や貴族などの出身者によって相承される特定の寺院のことを称し、門跡寺院と呼ばれている。
江戸幕府によって区分を制度化し、宮門跡・摂家門跡・准門跡などの区分ができた。圓満院は宮門跡に属し、十三門跡と呼ばれる寺院の一つである。
拝観料を支払えば国指定重文の「宸殿」・国指定名称史跡の庭園「三井の名庭」を観ることができる。
遊々館前には何かと賑やかな「鈴鳴り地蔵尊」が立っている。
また、圓満院の境内に入ってすぐ右側には、鉄筋コンクリート造の護摩堂が建っている。祀られている不動尊は秘仏で、1月28日の初不動の前後3日間と節分の日に公開される。
三井の名庭 護摩堂
長等山 圓満院(圓満院門跡) 不動明王 単立 近畿三十六不動尊霊場 第25番 滋賀県大津市園城寺町33
077-522-3690不動堂受付 500円 9:00〜16:30 有り 無料大本山 圓満院
次は 近江神宮へ で約7〜8分
三井寺を出て左へ、京阪電車に沿って5分ほど走り、小さな川を越えたら左へ行くと近江神宮の駐車場がある。
近江神宮の創建は新しく、昭和15年(1940)皇紀2600年を記念して創祀された。
参道を行くと、広くなった左に社殿に向う石段がある。
石段の先には鮮やかな朱塗りの楼門、授与所などが建っている。
楼門・外拝殿
楼門は三間三戸の入母屋造で、色鮮やかな立派な門である。
楼門を抜けると先はかなり広く、石畳が外拝殿へと続いている。
外拝殿は回廊によって更に奥の内拝殿へと繋がっている。
本殿は更に奥に建ち、回廊から僅かに屋根が見える程度である。
これら社殿は「近江造」と呼ばれる新しい様式である。
通常は外拝殿からの参拝になるが、祈祷を申込めば内拝殿で祈祷が受けられる。
栖松遥拝殿(せいしょうようはいでん)
外拝殿を右に行くと、木立が茂った山の中に黒塗りの社が建っている。
大正天皇の聖旨に依り有栖川宮の祭祀を継承された高松宮宣仁親王が、東京都港区高輪の宮廷内に建てた御霊屋を、高松宮薨去後宮家と縁のある近江神宮へ復元移築し、名称を栖松遥拝殿と名付けたそうだ。
「栖松」の名は、有栖川宮の「栖」と高松宮の「松」の一字づつを取ったものだとか。
近江神宮 天智天皇 (てんぢてんのう)
昭和15年(1940) 旧官幣大社・勅祭社・別表神社 滋賀県大津市神宮町1-1
077-522-3725授与所 有り 無料近江神宮公式ホームページ