前日、彦根に宿泊。翌朝北陸自動車道長浜インターで降り、近くの総持寺から巡る。
次に黒壁スクエアに車を置き、徒歩圏内の寺社を巡った。
この日は、黒壁スクエアも観て食べての観光をし、長浜市内に宿泊。
翌日、長浜港から船で竹生島へ渡り西国三十三ヶ所の寶厳寺などを巡る。
竹生島へは長浜港から1日5便、滞在時間を含め往復2時間20分を要する。
北陸自動車道長浜ICを出て右折、山階町信号を左折、宮司町交差点の角が総持寺。交差点を左折すると駐車場がある。
総持寺は、行基が国分寺の試寺として開山したのが始まりとされ、室町時代に足利義教から朱印六百万石を賜り、堂宇を建立した。
姉川の合戦で信長の兵火に遭い、七堂伽藍すべてを焼失した。
後に豊臣秀吉の寺領寄進により復興された。
ぼたんの寺と呼ばれ、境内には百種一千株の牡丹が植えられている。4月下旬から5月上旬が見頃時期とのこと。
本尊は「頭の薬師」と呼ばれる薬師如来で、西国薬師霊場第31番の札所である。
仁王門
道路に面して建つ三間一戸の仁王門は、寛永12年(1635)建立の切妻造、葺、総丹塗の八脚門で県指定文化財になっている。
冠木に牡丹唐獅子の彫刻を施した蟇股を置く造作も面白い。
両脇に安置されている金剛力士像は、京仏師高野左京の作といわれている。
仁王門から本堂へ
仁王門を抜けると、石畳が真直ぐに延び、その先に中門がある。
中門を更に抜けると、石畳は書院へと続いているが、訪問時は改修工事中だった。
途中で分かれた石畳は本堂へと通じている。
堂内に入って参拝させてもらった。本尊は薬師如来を中心に、脇侍に日光菩薩,月光菩薩を置く薬師三尊像である。
境内諸堂
本堂に相対して建っているのが護摩堂。
中門を入って左手に大日如来を祀る大日堂で、宝形造の小さなお堂だが、屋根は大きく立派な造りである。
反対側の右手には鐘楼が見える。
現在、客殿等が改修工事中で、シートに覆われていた。寺宝の拝観もできないようだ。
護摩堂 大日堂 鐘楼六瓢箪
庫裏に上がって、色々な話を聞かせてもらった中に、「六瓢箪」の話が出た。
豊臣秀吉に縁のある6ヶ所の社寺を巡り、6つの瓢箪を授かるというもの。
6つの瓢箪=六瓢箪(むびょうたんと読むそうだ) むびょう=無病、つまり無病息災のご利益があるというもの。
長浜城主だった秀吉公の合戦旗印に、千成瓢箪を掲げたことに結びついているのであろう。
長浜では、この六瓢箪霊場を中心に社寺を巡る。
医王山 楞厳院 総持寺ぼたん寺 薬師如来 真言宗豊山派 西国薬師霊場 第31番
近江湖北名刹27ヶ所 第20番
六瓢箪霊場
滋賀県長浜市宮司町708
0749-62-2543庫裏 ぼたん開花期 400円 9:00〜16:30 有り 無料医王山総持寺 ぼたん寺
西国薬師霊場六瓢箪霊場
次は 長濱八幡宮へ で約3〜4分
総持寺の駐車場を右に出て、長浜市役所の先を右折すると長濱八幡宮だ。
日本三大山車祭の「長浜曳山祭」で有名な長浜八幡宮は由緒書によると、延久元年(1069)源義家公が後三条天皇の勅願を受け、京都の石清水八幡宮より御分霊を迎えて鎮座したと記してある。
一の鳥居を抜けると、横に広い境内に沿って参道が続き、その先の直角に境内へ入った所に二の鳥居が立ち、拝殿へと通じている。
拝殿
二の鳥居の先に建っているのが拝殿である。
間口三間四尺、奥行三間、入母屋造で平入りに建て正面軒は唐破風で造られている。
よく舞殿と間違える人がいるが、能舞台は右手に建っている。
建部大社,日吉大社,多賀大社,日牟礼八幡宮など近江地方の大きな神社は、拝殿と本殿を分離して配置されてある事が多い。
格子戸により閉ざされてはいるが、行事の際は吹き放して使われるのであろう。
弊殿
右上に掲載した写真が弊殿である。
普通に賽銭箱が置かれており、我々はここで礼拝する。
格子戸で閉ざされており、神殿を拝観することができない。
本殿
弊殿に続いて建っているのが本殿で、正面からは見ることができないので、脇の回って拝観した。
間口三間、奥行二間の神明造である。本殿らしく高床で、弊殿からは数段の階段で上がるようになっている。
八幡宮の本殿として神明造は珍しく、いただいた説明書にもその旨が記載されていた。
高良神社(こうらじんじゃ)とぼけ封じの大石
本殿の右手に鎮座されている神社は、竹内宿禰(たけうちのすくね)を御祭神に祀る摂社高良神社である。
竹内宿禰は長寿を全うされた方であることから、健康長寿、子孫繁栄の神様として崇敬されている。
健康長寿という観点から、今流行の「ぼけ封じ」へ繋げているのであろう。
脇には「ぼけ封じの大石」なる大きな石が置かれていた。
境内社
高良神社の他にも境内左側に摂社・末社が鎮座している。
摂社は、菅原道真公を祀る天満宮、市杵島姫命(弁財天)を祀る都久夫須麻神社、大物主命を祭る金刀比羅宮と前述の高良神社。
都久夫須麻神社は放生池の中に建つ八角形をしたお堂である。
末社には末広稲荷神社、地主神社、熊野神社が祀られている。
摂社天満宮 都久夫須麻神社鳥居 都久夫須麻神社社殿
長濱八幡宮 誉田別尊 (ほんだわけのみこと)
足仲彦尊 (たらしなかつひこのみこと)
息長足姫尊 (おきながたらしひめのみこと)延久元年(1069) 旧県社・別表神社
六瓢箪霊場 滋賀県長浜市宮前町13-55
0749-62-0481 有り 無料長濱八幡宮 滋賀県長浜市 厄除開運
舎那院へは境内から直接入れるので 約1分
長浜八幡宮と境内で繋がっている舎那院は、弘仁5年(814)弘法大師空海を開基として創建された、という伝承を持つ古刹である。
当初の新放生寺は、長浜八幡宮の神宮寺を務め、社坊三百余を数える大寺であったが、16世紀後半の元亀・天正の兵火に遭い堂宇は焼失した。
天正19年(1591)、豊臣秀吉によって再興されたものの、次第に衰退の一路を辿っていった。
明治維新の廃仏毀釈令により、新放生寺は廃寺となり、子院の一つである舎那院のみが残った。その時、廃された寺院の仏像は舎那院に集められたという。
しかし、舎那院は荒廃していった。....が、壇信徒等の浄財によって、昭和17年(1942)再興されたという。
通称「ふようの寺」だけあって、境内には多くの芙蓉が植栽されている。
本堂
七間四面総欅造の本堂は、文化7年(1810)落慶の建物である。
もともとは、八幡宮境内に建っていた本地堂を移したものだそうだ。
入母屋造に流れ向拝を付し、虹梁の木鼻に大きな彫刻が施してある。軒下には「勝軍山」の扁額が掛かっている。
写真は無いが、西側(写真の左側面)に建て付けてある扉は、旧国会議事堂から移設されたそうだが、そうなのかなぁ。
堂内に安置されている本尊愛染明王は国指定重文と説明書にあった。
護摩堂 (不動堂)
本堂前を左に行くと、県指定文化財である護摩堂が建っている。
方三間の堂宇は、宝形屋根ではなく檜皮葺の寄棟造だが、軒反りの緩やかなカーブが美しい。
向拝は無く、高欄を付した縁を廻らせているが、現在は階段がなく、石を積んで階段代わりにしている。
周囲は格子戸と蔀戸が建てこんである。
建造は室町時代後期と考えられる旨、案内板に記されてあった。
八幡宮境内に建っていたものを曳家で移したそうだ。
太子堂
山門近くに建つ宝形造の小さなお堂は、聖徳太子が祀られている太子堂。
宝珠を載せた宝形造で、しっかりとした本瓦葺である。
観音堂
太子堂より更に内側に建っているのが観音堂で、三間四面の宝形造である。
太子堂と護摩堂の中間くらいの大きさかな。
前述の諸堂宇と異なり、縁は廻らせてない。正面は本堂に似て、引戸の外側に透かし彫りを施した菱格子の折戸が建て込まれてある。
舎那院が再興された昭和17年(1942)までの本堂だそうだ。
鐘楼
袴腰式の鐘楼は、宝暦5年(1755)に建立されたものだそうだ。
中に掛かる梵鐘は、室町時代に鋳造されたと説明書にあるが、部位の形状等による推察なので、実際のところはどうでしょう?
上層部分に施された龍の彫刻は見事である。
勝軍山新放生寺舎那院ふようの寺 愛染明王・阿弥陀如来 真言宗豊山派 六瓢箪霊場
滋賀県長浜市宮前町13-45
0749-62-3298本堂から呼出し 境内無料 (長浜八幡宮に隣接)舎那院 ふようの寺
長濱八幡宮から黒壁スクエアまで で約3分
ちょっと寄り道 黒壁スクエアを散策 豊国神社の隣は湖北エリアの一大観光スポット「黒壁スクエア」。
豊国神社隣のお旅所駐車場は観光バスの乗降所、連日大勢のツアー客で賑わっている。
そこで、黒壁スクエアを散策してみることに....。黒壁ガラス館
ガラス製品を売る、黒壁スクエアのシンボル的なお店。
小樽の北一ガラスみたい。 紙遊館和紙製品、和文具などを売る店。 季織の小径(ときおりのこみち)
北国街道沿いに新しくオープンした一画。 大手橋米川に架かる大手橋。
この橋の向こうに長浜曳山博物館がある。ゆう壱番街
祝町通りの商店街。カフェ叶匠寿庵もこの通りにある。
針屋橋表参道針屋橋からの眺め。
黒壁スクエアから大通寺への移動途中にあるカフェ叶 匠壽庵でティーブレーク。
和菓子屋のロールケーキをいただいた。
長浜黒壁店限定で六瓢箪に因んだ「六瓢箪」(最中)も売っている。
カフェ叶 匠壽庵 長浜黒壁店
営業 9:00〜17:00
定休日 水曜日(季節変動有り)
滋賀県長浜市元浜町13-21 黒壁スクエア20号館
0749-65-0177
公式サイト カフェ叶匠壽庵 長浜黒壁店
ながはま御坊表参道を で約5分
ひと休みしたところで、長浜で最もポピュラーな大通寺を訪れた。
生憎、雨模様になってしまった。
大通寺は京都の真宗本廟(通称:東本願寺)を本山と仰ぐ、真宗大谷派長浜別院である。
別称を「長浜御坊」と呼び、一般的に長浜別院、或いは大通寺と略称される事が多い。
別院は地方宗務機関に属し、教法の聞信・宣布の拠点となる寺院で、国内には51寺院が別院として設置されている。
大通寺は2万3千平米もの広い寺域に伽藍、庭園を配している。
表参道
カフェ叶匠壽庵前の「うらくろ通り」に出て右へ進むと表参道に達する。
黒壁スクエア独特の街並みの向こうに大きな山門が見える。
店舗がずっと建ち並んでいるのだが、浅草の浅草寺のような派手さは無い。
人通りが少ないのは、雨天のせいか否かは分からない。
時折、団体のツアー客がガイドさんに引率されて通るくらいである。
山門
街並みを抜けると、広い境内に似合った大きな山門が建っている。
三間三戸の総欅造二重門で、屋根は本瓦葺の入母屋造。
両脇に桁行三間,梁間二間,切妻造,本瓦葺の山廊を付している。
パンレットによれば、文化5年(1808)に起工し、天保11年(1841)に落成したとある。
上層階には須弥壇が設けられ、釈迦如来、弥勒菩薩、阿難尊者の三尊が安置されている。
下層階の三手先や飛貫上の彫刻など意匠が施されている。
本堂 (阿弥陀堂)
別院というだけあって立派な本堂である。
桁行正面五間、背面九間、梁間八間、本瓦葺の入母屋造という大きさの建物は、明暦3年(1657)の建立で、国重文に指定されている。
向拝から上がってみると、正面と両側面には広縁と段差を付けた落縁がコの字形に廻らせてある。落縁には高欄を付して転落防止を図ってある。この辺りの構造は、真宗本廟の御影堂と同じようだ。
本堂から大広間へは渡廊で繋がっている。広間及び庭園
広間は江戸前期に建てられた書院造の建築物で、国重文に指定されている。
広間には国重文指定の玄関や同じく国重文指定の含山軒,蘭亭などが付属している。
含山軒の見処は2室。一の間には狩野山楽、二の間には狩野山雪の筆による山水画が描かれている。
蘭亭には部屋の名になった丸山応挙の筆による「蘭亭曲水宴図」が描かれている。
いずれも写真撮影は許されてない。
含山軒及び蘭亭にはそれぞれ国指定名勝の庭園が付随しているので、建築物のみならず、庭園もじっくり鑑賞したい。
含山軒庭園 蘭亭庭園鐘楼及び太鼓廊
本堂の南東に延宝3年(1675)建立の鐘楼が建っている。方一間の四脚鐘台で、他の堂宇が瓦葺なのに鐘楼だけ檜皮葺というのも変わっている。四方に廻らせた彫刻も珍しい(写真中央)
雨天だったので水たまりかと思ったら、周囲に池が廻らせてあった。
中に掛かる梵鐘は貞治2年(1363)鋳造のもので、もと小浜市の石照山多田寺にあったものだそうだ。
鐘楼の北側に建つのが太鼓廊で、上層、下層とも入母屋造なので、どことなく面白い形状をしている。
近年保存修理が終了したばかりである。
無礙智山 大通寺 阿弥陀如来 真宗大谷派 − 滋賀県長浜市元浜町32-9
0749-62-0054 境内無料 堂内 500円 10:00〜16:00 有り 無料長浜別院|真宗大谷派 長浜教区 ※ 真宗なので御朱印はなし。
※ 新型コロナウイルス感染症
に伴い、拝観等の変更有。
次の知善院まで 約3分
大通寺から知善院までは徒歩約3〜4分ほど。
黒壁スクエアを南北に貫く道路の北国街道から1本東側の道路沿い山門がある。
知善院はもと小谷城(おだにじょう)下(現長浜市湖北町)にあったが、豊臣秀吉が長浜城築城の際、守護寺として城の鬼門の方角である現在地に移築したのだそうだ。
知善院も六瓢箪霊場だが、総持寺や舎那院と比べると小じんまりとした境内である。
もと長浜城の搦手門(からめてもん)を移築したといわれるどっしりとした山門が構えている。
本堂
山門を入って左手にシンプルな感じの本堂が建っている。
誰も居ない様子だったので、庫裏を尋ねたら”本堂にお上がりください”との事で上がらせてもらった。
須弥壇には本尊の阿弥陀如来三尊像が、その左側には大阪城落城の際、持ち出されたという秀吉公の木造坐像が安置されていた。
通常、阿弥陀三尊は脇侍が観世音菩薩と勢至菩薩なのだが、知善院のは日光菩薩と月光菩薩なのだ。
これって薬師三尊のスタイルだよなぁと思いつつ本堂を降りた。
観音堂
境内の東奥に建っているのが観音堂。
本堂と渡り廊下で繋がっている。
入母屋造の小さな堂宇だが、奉安されている十一面観音坐像は、鎌倉時代作の国指定重文(美術品)なのである。
右手は垂下し与願印の印相、左手には水瓶を持つ一般的な形である。
ところが、知善院の十一面観音は坐像である。通常は立像が多いけど、これって珍しいのではないか....とここでも何かを感じた。
境内諸堂
境内には他に鐘楼ほか、小さいながら何棟かの堂宇が建っている。
観音堂の右手に建つのは地蔵堂。堂内には正面にカラフルないでたちの地蔵菩薩像、左側の厨子内には三宝荒神、右側には不動明王が安置されている。
地蔵堂 鐘楼 不明
宝生山 勝安寺 知善院 阿弥陀如来 天台真盛宗 六瓢箪霊場
近江湖北名刹27ヶ所 第17番
近州三十三観音 第19番 滋賀県長浜市元浜町29-10
0749-62-5358本堂内 境内無料 300円 9:00〜16:00 なし知善院|滋賀県観光情報
次の豊国神社まで 約7〜8分
知善院を出て、大手門通りまで来たら右折、お旅所駐車場の先に豊国神社がある。
豊国神社は主祭神に豊国大明神(=豊臣秀吉)を祀る神社で、主に愛知県以西に鎮座している神社である。
長浜の豊国神社は”ほうこく”よ呼ぶが、”とよくに”と呼ぶ神社もある。
神社の境内は樹木に覆われていることが多いが、ここは街中にあり、茂るような樹木が無いので、上の空間が広く明るく感じる。
豊国神社の創建は慶長5年(1600)。長浜町民が秀吉公の3回忌に遺徳を偲んで神社を建立したのが始まり。
ところが、江戸時代になると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されてしまったそうだ。
寛政5年(1793)、恵比寿神を祀る神社建立の許可を彦根藩から取り付け、一社を建立し、奥社で密かに秀吉公を祀っていた。
明治31年(1898)に拝殿が再建され、大正9年(1920)郷社に列せられ豊国神社の名が復活したのだそうだ。
聞いてみなければ分からない話である。
社殿
拝殿は、間口三間一尺×奥行三間五尺の入母屋造千鳥付、桟瓦葺で、正面に檜皮葺唐破風の向拝を付している。
向拝の両側に縁を付してあるが、上がる事はできない。
本殿は神明造で間口一間三尺×奥行一間、銅板葺である。
千木を付け、大棟には鰹木を載せている。
摂社 出世稲荷神社
豊国神社社殿右側に、朱塗りの出世稲荷神社が鎮座している。
御祭神に宇賀乃御魂命(うかのみたまのみこと),稲玉命(いなたまのみこと)を祀る。
拝殿は近代建築の様相だが、本殿は一間社流造,檜皮葺で落ち着いた感じの社殿である。(写真右)
社殿を囲むように敷石の回廊が廻らされてあり、参道のまん丸なお百度石(写真左 鳥居の左手前)と合わせて、社殿をぐるっと廻るお百度参りを考慮した建て方になっているのかなと想像した。
摂社 天満宮
瓢箪池の道路側に建つ天満宮。
御祭神は菅原道真公(すがわらのみちざねこう)。
一間社流造の社殿を小屋ですっぽり覆っている。天満宮に付き物の絵馬は小屋の中に掛ける様になっていた。
豊国神社 豊国大明神(豊臣秀吉)
慶長5年(1600) 旧県社
六瓢箪霊場 滋賀県長浜市南呉服町6-37
0749-62-4838授与所 有り(数台) 無料豊国神社|豊臣秀吉を祀る神社
次の神照寺まで 約12分
黒壁スクエアから北に向かい、国道8号を右折、神照小東の信号を左折すると神照寺にでる。
豊国神社から徒歩だと50分ほどかかるので、ここは車でしょう。
長浜駅から路線バスもあるが本数は少ない。
寛平7年(895)第59代宇多天皇の勅命により、益信僧正が初代の住職となり七堂伽藍の寺を建立したのが始まりという。
その後、衰退興隆を繰返し、元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火、天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い衰退した。
天正11年(1583)秀吉公による天下統一を機に伽藍の大改修を行った。
徳川時代に醍醐寺の末寺となるが、明治時代中期、智山派に転じ今日に至っているという。
本堂
真言宗智山派 日出山神照寺と深刻された石標が立つ入口から延々と参道が続き、その先に間口5間瓦葺入母屋造りの本堂が建っている。
本尊に金剛界大日如来・胎蔵界大日如来を祀り、札所本尊である国指定重文の「木造半肉彫千手観音立像」も堂内に安されている。
また、所蔵されている木造毘沙門天立像も国指定重文であり、収蔵品には他にも国宝に指定されている金銀鍍透彫華籠(きんぎんとすかしぼりけこ)があり、失礼ながらその意外さには驚かされた。
神照寺の自噴井
神照寺の手水舎には寺社によくある水盤がない。
円形の井戸のような上に柄杓が置かれている。よく見ると水面の中央部分がもくもくと盛上がり、水が湧いているのが分かる。 地下100mから湧く自噴井だそうだ。
手水舎 自噴井境内諸堂
手水舎の脇に朱塗りの鳥居が並んでいる。その先の本道隣に神照稲荷が建っている。正面に「神照稲荷」と書かれた扁額が架かっている。
他には護摩堂・鐘楼・十三重塔などである。
神照寺は萩の寺としても有名で、開花期の9月頃は200円の入山料が必要となる。
神照稲荷とその参道
鐘楼 護摩堂 十三重塔
長浜最古の寺として数ある寺宝を拝観するのもよいであろう。
日出山 神照寺萩の寺 大日如来 真言宗智山派 六瓢箪霊場 札所本尊:千手観音
近江湖北名刹27ヶ所 第15番 滋賀県長浜市新庄寺町323
0749-62-1629納経所 境内無料 萩まつり期間中は有料 有り 無料日出山神照寺
次の安楽寺まで 約7分
神照寺から再び国道8号に出て右折、曽根南の信号を左折し少し走ると右手に「無為山 安楽寺」と刻まれた石標が立っているので、そこを右折すると突当りが安楽寺。
駐車場を利用する場合は、曽根南の一つ先の御館口交差点を左折して寺の裏側に回る。
安楽寺は長浜市に存在する五百十数ヶ寺の内僅か6ヶ寺しかない臨済宗の寺院の一つ。
縁起によると、安楽寺が建つ細江の集落がある辺りは、飛鳥から奈良時代初期にかけて公卿藤原鎌足の二男藤原不比等の荘園があったとされる。
弘安2年(1279)に九条家が無為の祈願を以って、開山に京都東福寺第五世仏智禅師を迎え安楽精舎を建立したのが始まりとされている。
後に足利尊氏らの庇護を受け、大伽藍を形成、塔頭2ヶ寺を持ち隆盛を極めたが、元亀元年(1570)姉川の合戦で兵火により消失。
江戸期に入り彦根城城主井伊直孝の庇護を受け、井伊家菩提所の龍潭寺開山萬亀和尚に命じ寺の再建を図り現在に至っている。
長い参道
石標のところから歩車併用の長い参道が続き、石橋を渡ると写真のような本格的な参道が続いている。
駐車場はこちら側にはなかった。多分裏手の墓地の方かも知れない。
他に参詣者が居なかったので、石橋手前のスペースに駐車させてもらった。
右側に見える茂みは見処の一つである庭園の築山部分で、玄関へ行く間に庭園を見る場所はなく、本堂に上がって鑑賞する仕掛けになっている。
正面の門を抜けると更に石畳は続き、両側に諸堂・石塔が風景を壊さない配置で並んでいる。
足利尊氏の爪墓
足利尊氏が北国街道を進軍中、この辺りで急に馬が進まなくなった。ある石のたたりのせいだとのことで、その石を寺に納め供養したところ馬が進むようになった。
尊氏は寺に三百石の御朱印を贈り、「死んだら位牌を安楽寺に納め、爪を埋めて供養せよ」との遺言を残した。....だそうだ。
これが爪を納めたという墓で、右手前にある石が「進み石」だそうだ。
足利尊氏ゆかりの寺と称されているのは、このあたりの理由であろう。
参道脇の諸堂・石仏
尊氏の爪墓の他は下記のお堂と石仏が置かれている。
観音堂 大師堂 釈迦如来坐像観音堂 特別に説明する術も無い単なる観音堂と思える。
大師堂 石標に「湖北準四国第五拾六番 弘法大師」と刻まれている。
釈迦如来像 石標に藤原中期とあり、その時代の作で、徳川時代に琵琶湖から出現の像という。
玄関そして本堂へ
参道の突当りに庫裏と本堂へつながる玄関がある。拝観・御朱印はここでお願いする。
最初に対応戴いたのが本山の住職で、本堂に案内され庭園が見えるよう雨戸を開けてくださった。
玄関 本堂内
須弥壇中央に本尊釈迦牟尼仏が安置されている。この尊像は室町時代の作で、浅井家家老が再建の折納めたものだそうだ。
庭園
案内が奥さまに替わり、庭園の話に移った。
500平米ほどの地に築山を設け、琵琶湖を模した池を配した山水廻遊式で、作庭は夢窓疎石とのこと。
夢窓疎石といえば鎌倉瑞泉寺・京都西芳寺・天龍寺など国指定名勝の庭園を作庭した著名な臨済宗の禅僧である。
曇天で望むことはできなかったが、東に伊吹山を借景としているとの説明であった。
庭園の後は、宝物品を拝見させて戴いた。
浅井氏家臣・海北綱親の子、天文4年に父が戦死したのを機に禅門に入り、東福寺で修行。この時に狩野派を学んだと言われる海北友松の水墨画、臨済宗中興の祖と言われる江戸中期の禅僧である白隠慧鶴の達磨画像、仙国T師の屏風などが収蔵されていた。
茶菓子のご接待もあり、予約もしない個人の拝観に手厚い対応をして戴いたことに感謝し、寺を後にした。
無為山 安楽寺 釈迦如来 臨済宗妙心寺派 近江湖北名刹27ヶ所 第16番
びわ湖108霊場 第42番
湖北準四国八十八箇所 第56番 滋賀県長浜市細江町105
0749-72-2381玄関 300円 要事前連絡 有り 無料
翌日は航路竹生島へ向う 約30分 竹生島港から寶厳寺まで 約8〜10分
長浜港から船で竹生島へ渡る。
長浜港〜竹生島航路は1日5便。往復約1時間で、竹生島滞在時間80分を加えると、最低2時間20分を要する。
長浜に宿泊し、9:00発の始発便に乗船した。
竹生島に上陸したら、入島料400円を支払って寶厳寺へ。
寶厳寺は、真言宗豊山派に属する寺院で、行基の開基と伝わる。本尊に弁財天を祀り、観音堂には西国三十三箇所霊場第30番の札所本尊である千手観音を祀ってある。
竹生島には、寶厳寺と竹生島神社(都久夫須麻神社ともいう)、それに数件の土産物屋があるだけで観光施設は無い。
現在、寶厳寺と竹生島神社は別法人で運営されているが、明治維新の神仏分離令以前は一体であった。
石段 (祈りの階段)
竹生島は船着場以外は切立った断崖で、島全体が山である。
本尊が安置されている弁天堂へ行くには165段の石段を上らなければならない。
鳥居が立っている所が終点かとおもったら、まだ先があった。
上りきって下を見ると....自分ながらよく上ったなぁと。
左の石垣の上には、本坊と月定院が建っている。
石段の途中にある手水舎の水は、「瑞祥水(ずいしょうすい)」と呼ばれる平成14年に掘られた井戸の地下水であると記載されている。
竹生島が川鵜の異常発生による自然破壊で、山の保水能力が低下し、湧水が枯渇してしまい飲料水の確保が困難になったため、井戸を掘ったところ深さ230mで水が湧いたという。
写真右は、石段の途中にあった、宝形造の小さな堂宇は本尊に不動明王を祀る護摩堂である。
本堂 (弁才天堂)
石段を上り切ったら広場になっていて、その一画に昭和17年(1942)落慶の本堂である弁才天堂が建っている。
五間四方の母屋の四方に裳階を設けてあるので外観的には七間四方になっている。屋根は檜皮葺の二重屋根で、母屋正面に千鳥破風を付けた大きな朱塗りの堂宇である。
祀られている本尊の弁財天は、江の島,宮島と共に日本三大弁財天の一つだという。
本尊は秘仏で60年毎に開帳され、通常拝見できるのは前立本尊である。
次回のご開帳は西暦2037年なんだそうだ。
弁財天の像容には2臂像と8臂像の2種類あって、2臂像の弁財天はバチとビワを持った音楽神の姿をしている。
よく見るタイプの方である。
8臂像は8本の手に刀・弓・矢・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索など武器を持った戦勝神の姿をしている。
寶厳寺の弁才天は8臂像ではあるが、宇賀神と習合し宝珠と鍵を持っている。
弁財天を参拝の後、本堂左奥にある「三龍堂」をお参りした。
三重塔
一段と際立つ色彩の三重塔は、平成12年(2000)に再建された新しい建物である。
文明19年(1487)に建立した塔は、江戸時代初期に落雷で焼失してしまったとの事で、随分と歳月を空けての再建である。
現在の塔は、総高15.5mの総檜造。説明によると、古来の工法に基づいて建築されており、四本柱に32体の天部の神々を描き、また、四方の壁には真言宗の八人の高祖を描いたとある。
初重には金剛界大日如来を中央に安置し、塔の本尊としている。
唐門
三重塔から石段を下りていくと国宝唐門に出る。
唐門は唐破風を持つ門で、唐破風の持ち方で2種類がある。開口正面に向かって左右に唐破風を持つのを平唐門(ひらからもん)、前後に持つのを向唐門(むこうからもん)といい、寶厳寺の唐門は向唐門である。
この唐門は、秀吉公を祀る京都東山の豊国廟にあった極楽門を、慶長8年(1603)に移築したといわれている。
門として独立して建てず、観音堂の建屋に接続して建て付けてあり、観音堂の入口のように見える。
細部の彫刻を見てみると、懸魚は無く、虹梁の上に蟇股を置き、その内側には牡丹の彫刻、外側には雉のような鳥が向い合い、虹梁下にはウサギ3羽の彫刻が施されている。
観音堂・舟廊下
唐門から入ると壁面に突き当たり、賓頭慮尊者?が安置されている。その前を右に進むと外陣の正面に出る。
内部はよくある観音霊場と似たような感じだ。
拝見できる観音像は前立本尊で、本尊の千手千眼観世音菩薩像は厨子の中に安置されており、秘仏の為拝観できない。 弁才天同様60年に一度開扉される。
国指定重文の観音堂は、桁行五間、梁間四間の入母屋造で、屋根は檜皮葺。急な斜面を切開き、石垣を積んだ上に建てられてあり懸造となっている。次に続く舟廊下と共に移築されたものである。
舟廊下
観音堂を抜けると、国指定重文の舟廊下と呼ばれる渡廊が続き竹生島神社へと繋がっている。
舟廊下と呼ばれる所以は、秀吉の御座舟を解体して造ったことに発するのは良く知られた話である。
なるほど、天井を見ると舟を利用したのがよく分かると言う人がいるけれど、それは勘違いだと思う。
天井が勾配を持たせた化粧屋根裏になっているので、そう思うのかも知れない。
渡廊は2つに分かれていて、観音堂側は桁行八間、梁間一間の檜皮葺切妻造で、低屋根部といわれている部分。
その先に、桁行二間、梁間一間の檜皮葺切妻造の渡廊が接続されている。こちら側を高屋根と呼んでいる。
この渡廊は、急な斜面に造られているため、 懸造になっている。
つまり、崖の下から立てた束柱を水平の貫でつなぎ、さらに柱と貫の接合部には楔を打って緊結する構造になっている。 木造版ラーメン構造といったところ。 しかも、清水寺の舞台同様、釘が使われていない。
巌金山 寶厳寺 十一面観世音菩薩 真言宗豊山派 西国三十三ヶ所 第30番
滋賀県長浜市早崎町1664
0749-63-4410本堂手前の納経所 最寄に鉄道の駅なし 竹生島入島料400円が必要 長浜港に駐車竹生島・寶厳寺
西国三十三ヶ所弁財天
寶厳寺境内と直結
寶厳寺の舟廊下を渡って来ると竹生島神社に出る。
竹生島神社は都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)とも称されるが、いただいた御朱印が”竹生島”と書かれているので、ここでは竹生島神社と記載する。
雄略天皇3年(420)の創建と伝わり、延喜式神名帳にも”近江國淺井郡 都久夫須麻神社”と載る由緒ある神社である。
江戸時代までは神仏習合が進み、寶厳寺と一体であったが、明治維新の神仏分離令以降、廃寺を免れた寶厳寺とは境界が定められ、財産が分けられた。
今日も別法人で運営されているが、寶厳寺観音堂と本殿は渡廊で結ばれている。
本殿
舟廊下を抜けるといきなり本殿前に出る。
国宝に指定されている本殿は、元伏見桃山城の日暮御殿を移築したものといわれているが、移築した部分は方三間の身舎部分で、永禄10年(1567)に再建された周囲庇及び正面向拝を組み合わせた建物である。
従って、伏見城の遺構部分は方三間の身舎部ということになる。
末社
本殿前石段の両脇に末社2社が鎮座している。
向って右側は、江島大神と厳島大神を祀り、左側は大己貴神(おおなむちのかみ=大黒様)と天忍穂耳命(あめのおしおみのみこと)を祀っている。
龍神拝所
本殿石段前に建つ拝殿には南側に龍神拝所がある。
琵琶湖を一望できる絶景ポイントである。
その龍神拝所の脇から「かわらけ」を投げることができる(有料)。
眼下にある宮崎鳥居をくぐったら”願い事がかなう”というので、早速やってみたら....何と鳥居直前で左へスライドして脇へ落下してしまった。
それを見ていた相方は、まんまと鳥居をくぐらせてしまった。 まあ、人生そんなもんでしょう。
招福弁財天
拝殿を出た先に招福弁財天を祀るお堂がある。
中を覗くとカラフルな弁財天が安置されている。
我々は弁財天と言うとこちらの像を思い浮かべる。寶厳寺の本尊のような戦闘的な弁財天はあまり馴染みがない。
看板には「日本五弁天」と記され、安芸国 厳島大神,大和国 天川大神,近江国 竹生島大神,相模国 江島大神,陸前国 金華山 黄金山大神と列挙されてあった。
黒龍堂
舟廊下の下をゆく参道に真っ赤な社が建っている。
鳥居の額には黒龍大神・黒龍姫大神と書かれてある。
脇に案内板があったので読んでみると…”黒龍は、八大龍王の一尊。龍王は大海に住み雨を降らす神.....”と記されている。
それは、それで納得だが、文末に「竹生島 宝厳寺」と署名がある。
黒龍堂は寶厳寺の管掌なのだろうか、ここは竹生島神社の参道の筈。
等々考えつつ参道を下って行った。 後日、双方のWebサイトを見ても記載は無かった。
帰りの観光船から竹生島を眺めると、龍神拝所が見える。かわらけを外した鳥居も....。
その右側には、現在は修業道場などとして利用されている「常行殿」が見えた。
今度、来る機会があれば、黒龍堂について聞いてみよう。
かわらけも再挑戦だ。
再び桟橋に戻り長浜港へ船で移動。
竹生島神社 市杵島比売命 (いちきしまひめのみこと)
宇賀福神 (うがふくじん)
浅井比売命 (あざいひめのみこと)
龍神 (りゅうじん)雄略天皇3年(420) 旧県社・式内社(小) 滋賀県長浜市早崎町1665
0749-72-2073拝殿内授与所 最寄に鉄道の駅なし 長浜港に駐車竹生島神社