諸國放浪紀
寺社を巡る旅
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弘前から深浦へみちのく寺社回廊


近江寺社回廊
弘前から深浦へ 
 
飛行機:羽田・伊丹・小牧・新千歳〜青森 青森空港からバス55分
新幹線:新青森駅からJR在来線25〜40分
高速バス:新宿から約9時間
車移動必須なので、レンタカーは青森空港か弘前駅周辺で借りるのが便利。


はじめに

津軽十万石の城下町として、藩政時代には大いに栄えた弘前市であるが、弘前城築城に際し、城を守るため囲むように寺院が建てられていった。 それら津軽家に縁のある代表的な寺院を参拝した。

弘前をスタートし、白神山地へ向う道すがら沿道にある著名な神社仏閣に立寄る。
車での移動だが、岩木山神社までならバスを利用して何とか行ける。

最勝院さいしょういん弘前市


紀三井寺道順
先ずは最勝院に縁の深い弘前城を観てから向う。
最勝院は追手門の真南に位置し、弘前高校とは川を挟んで隣に建つ。追手門から車で1〜2分、歩いても12〜13分の距離。

概要
最勝院は天文元年(1611)の創建で、当初は堀越城の城下にあった。
江戸時代の初め、弘前藩2代藩主津軽信枚による弘前城築城に際し、慶長16年(1611)城の鬼門に当たる現在地から北へ3kmの所へ移された。
歴代弘前藩主津軽家の永世祈願所として庇護され、弘前八幡宮別当寺となり寺領300石を領有し、12ヶ寺の塔頭を従えていた。

明治初めの神仏分離令により弘前八幡宮から分離し、明治3年(1928)現在地である旧大円寺境内に移った。
本堂(現護摩堂)、五重塔など建造物は大円寺の建物を流用している。

参拝記
五重塔
最勝院のシンボルである五重塔(国指定重文)は、津軽藩3代藩主津軽信義,4代津軽信政の寄進により、10年以上を費やし寛文7年(1667)に完成した旧大円寺の塔である。

三間四面、総高31.2mの塔で、屋根は宝形造銅板葺、初層正面を連子窓として他の面では円形の板連子になっている。初層に大日如来を安置している。

仁王門から本堂へ
参道入口脇の小さな駐車スペースに車を置き、数段の石段を上がると、右側に三十三観音の石仏が並ぶ石畳の参道が延びている。
参道は突き当りで右に折れ、その先に仁王門が建ち、更に本堂へと石畳が続いている。

参道 仁王門 仁王像
参道、右側に石仏の観音像
仁王門
仁王像

参道2仁王門は新仁王門と称され、昭和58年(1983)弘法大師入定1,150年忌の記念事業として建立された比較的新しい門である。青森の名工 大室勝四郎棟梁によるものだそうだ。

因みに旧仁王門は旧大円寺の玄関で、新仁王門から観て一番奥にある。

仁王門の先は両側に三十三観音の石仏が並んでいる。
最勝院の三十三観音には、楊柳観音・多羅観音など普段耳にしない観音さまが坐しておられる。

本堂
本堂参道の先で一段上がると本堂・五重塔など諸堂が立ち並ぶ広い境内となっている。

本堂手前の右には本坊が建ち、お守りや御朱印はここで頂く。

本堂は昭和45年(1970)落慶の建物で、後の平成14年(2002)屋根の改修工事を行ったという。

本尊金剛界大日如来を中央に、弘法大師空海、興教大師覚鑁を安置している。

護摩堂 護摩堂
本堂の左、弘法大師像を挟んで建つのが宝珠を乗せた宝形造の護摩堂。
旧大円寺の本堂であったと言う。
本尊には疫病除けにご利益があるという牛頭天王を祀っている。






境内諸堂

六角堂
五智如来堂
聖徳太子堂(中央)

護摩堂の左手には諸堂が建ち並んでいる。
石標が立って目立つのが聖徳太子堂。その右隣に庚申堂、その手前が薬師堂。
更にその左側に建つのが昭和7年(1932)に再建されたという五智如来堂(写真中央)。

境内東側に建つ六角堂は如意輪観音を祀るお堂だが、そもそもは元治元年(1864)大円寺に建てられた建物で、平成18年に大修繕を行い、 現在の綺麗な姿になったという。

 
正式名称
金剛山 光明寺 最勝院
 
本 尊
大日如来
 
宗 派
真言宗智山派
 
札 所
津軽弘法大師霊場 第1番
北国八十八カ所霊場 第59番
津軽八十八カ所霊場 第49番
東北三十六不動尊霊場 第15番
 
所在地
青森県弘前市大字銅屋町63
0172-34-1123
 
最寄駅
  駐車場 有り(無料)
  公式サイト 金剛山 最勝院 
最勝院朱印


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最勝院 長勝寺(約5分の走行)
最勝院前の駐車場を左に出て県道28号を進み、案内標識に従って西目屋方向へ。
三叉路の交差点を右折し、道なりではなくひたすら直進方向。
T字路に突当ったら右折、そのまま進めば左手に長勝寺。



長勝寺ちょうしょうじ弘前市


道成寺概要
長勝寺は、津軽家の先祖である大浦光信の菩提を弔う為、子の盛信が菊仙梵寿を開山に招いて享禄元年(1528)に創建したといわれている。

当初は、種里(現鯵ヶ沢町)に建てられていたが、津軽為信が大浦に移した。更に弘前城築城に際し、慶長16年(1611)、城の裏鬼門に当る現在地に移した。

長勝寺は、弘前藩主津軽家の菩提寺だけでなく祈願所でもあった。 本堂・庫裏は共に慶長年間の建立で、庫裏は大浦城の台所を移築したものと言われている。

参拝メモ
塀に囲まれた長勝寺の門を入ると、敷石の先に大きな三門が構えている。
この三門の他、長勝寺境内には本堂・庫裏・銅鐘・津軽家霊屋など数々の重要文化財を拝観することができる。
有料だが職員がこれらを案内、説明してくれるのでお願いするのがお奨め。

三門
本堂国指定重文の三門は、寛永六年(1629)二代藩主津軽信枚によって建立建立された門である。
以後、数回の修復を経、文化六年(1809)の大修理で、下層に花頭窓を設け仁王像を安置したそうだ。

三間一戸の楼門形式で、どっしりとした構えである。
棟高は16.2mあり、 屋根はとち葺の入母屋造となっている。

上層は二軒繁垂木の軒を三手先の斗組によって支え、高欄を付した縁を廻らせている。


銅鐘
鐘楼三門の写真、右隅に見える鐘楼に吊るされている梵鐘は、国指定重文の工芸品なので見て置きたい。

嘉元四年(1306)の銘があるが故に「嘉元鐘」の名が付けられている。
鐘は全高130,3cm 口径76.6cmの銅鐘である。

鐘楼は下半分が囲われており、裏側に階段が設けられている。少し珍しい形の鐘楼である。



蒼龍窟
本堂東側に「蒼龍窟」と呼ばれる建物があり、中には羅漢像が安置されている。

三尊像 羅漢像
中央の三尊像
左右に羅漢像

堂内中央には厨子堂に納められた三尊像、その右側には安寿像、左側には厨子王像が祀られている。
両サイドの段には五百羅漢の内の一部が置かれている。約180体程だそうだ。
羅漢像の上の棚には十二弟子が安置されている。

津軽承祐の座棺
座棺蒼龍窟の隣に少々簡素過ぎる建屋がある。
千体仏に囲まれた中央に座棺が置かれている。

長勝寺墓地移転の際、地中より発見された座棺で、陸奥弘前藩の第十一代藩主津軽順承(つがるゆきつぐ)の養子「津軽承祐 (つがるゆきとみ) 」が収まっていた。

承祐は18歳で病没、座棺にて土葬されていたとのこと。
発見時には保存状態がよくミイラ化された状態であったという。
平成7年に火葬され再び埋葬されたそうだ。

津軽家霊屋(つがるけたまや)
本堂左手の樹木が茂った中に、各々玉垣で囲われた5棟の建物が並んでいる。
これらは津軽家霊屋と呼ばれ、歴代藩主や正室の霊屋である。 何れも国重文に指定されている。
津軽家霊屋
環月臺( かんげつだい)…初代藩主為信室
碧巌臺(へきがんだい)…二代藩主信枚
明鏡臺(めいきょうだい)…二代藩主信枚室
白雲臺(はくうんだい)…三代藩主信義
凌雲臺(りょううんだい)…六代藩主信著





 
正式名称
大平山 長勝寺
 
本 尊
釈迦如来
 
宗 派
曹洞宗
 
札 所
新西国三十三ヶ所観音霊場 第5番
 
所在地
青森県弘前市西茂森1-23-8
0172-32-0813
  朱印所 庫裏
 
バス停
 
拝 観
拝観料600円 入山のみは無料 9:00〜17:00  
 
駐車場
有り(無料)
道成寺朱印


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長勝寺 弘前天満宮 (約4〜5分の走行)
禅林街長勝寺前から真直ぐに延びる道路、通称「禅林街」。三十三ヶ寺の曹洞宗(禅宗)の寺院が建ち並んでいるのでそう言うらしい。
弘前天満宮へ行くには禅林街の内、長勝寺から黒門までの20ヶ寺が並ぶ上寺通りを走る。
黒門を抜けると左手に丹塗りの赤門が見える。その先にある狭い十字路を左折すると、突当りが天満宮の入口となる。
「100m先車両進入禁止」の標識があるが、天満宮までは通行できる範囲である。


弘前天満宮ひろさきてんまんぐう弘前市


須賀神社概要
弘前天満宮、正式には天満宮と呼ぶ。菅原道真公を祀るいわゆる天神さまである。
その歴史は古く....
開祖は菅家の未裔、珍重丸の十二代後胤にあたる大行院栄尊。
京都近衛家の要請で初代弘前藩主津軽為信の招きに応じて、 大根子村(現田舎館村大根子)に祈願所を設け仮堂を開創し、長永寺松峰山大行院と称した。大行院は修験道の寺院であった。

慶長四年(1599)八幡村(現弘前市八幡町)へ移り寺禄三十石を与えられた。寛永二年(1625)新寺町へ移住。 報恩寺の造営に際し、 宝暦四年 (1755) 津軽藩薬草院のあった西茂森の現在地に屋敷を移転した。

明治四年(1871)修験の廃止により天満宮となった。
大行院の本尊文殊菩薩と大浦家(後の津軽家)の先祖が祀っていた舘神(天神さま)を明治四年天満宮に移し御神体を併せ祀っている。

参拝メモ
鳥居禅林街を左折して狭い路地に入ると、正面に天満宮の赤い鳥居が見えてきた。近づくと扁額に天満宮とあった。

鳥居の左側から回り込むように境内に入ると駐車場があった。
その先は木立が繁っていて、そこに拝殿へ向う参道が延びている。
中央に敷石を置く整備された参道である。

駐車場のの左手に建つベージュ色の建物は社務所で、御朱印はここでいただく。
参道

拝殿
参道を進むと、石灯籠の先に再び鳥居が現れた。二の鳥居?
更に進むと突当りに拝殿が建っている。

切妻屋根の簡素な造りの拝殿である。
妻入りで建てられ、正面に向拝というより庇と云う表現が相応しい屋根が付いている。

三段の階段を設け、三方に縁を廻らせてある。
幾多の残してきた歴史の割にはあっさりとしたイメージの拝殿である。

本殿 本殿
拝殿の脇から奥へ行ってみると、本殿を拝することができた。
朱ではなく真っ赤な玉垣に囲まれて建つ本殿は、一間社流造で神社らしい建物である。

稲荷社
稲荷社
本殿左隣に稲荷社が鎮座している。








 
名称
天満宮
 
御祭神
菅原道真朝臣命
 
創建
 
 
社格等
旧村社
 
鎮座地
弘前市西茂森1-1-25
0172-32-5796
  朱印所 社務所
 
バス停
 
駐車場
有り 無料
須賀神社朱印


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弘前天満宮 青森縣護國神社 (約9分の走行)
来た道を禅林街まで戻り左折。突当ったら左折し、3つ目の信号を左折して一方通行の坂を下る。
その先の変則的な交差点を右折。そのまま進んで、長寿湯(浴場)のある交差点を右折し、堀に架かる一陽橋を目指し、隣接するサクラパーク(有料)に駐車する。
青森縣護國神社は一陽橋を渡った先の弘前公園内に鎮座している。
写真は一陽橋から眺めた西濠。




青森縣護國神社あおもりけんごこくじんじゃ弘前市


須賀神社概要
弘前城のある弘前公園の北隅に鎮座している。
由緒書きによると.....
明治三年(1870)、津軽藩主津軽承昭公の思し召しにより函館戦争の戦没者慰霊のために創建された。
明治四十三年(1910)三月に弘前招魂社として現在地に移築、昭和十一年(1936)八月青森縣招魂社となり、昭和十四年(1938)四月、護國神社となった。…とある。

参拝メモ
西濠に架かる一陽橋をわたり公園内を行くと左手に護國神社が見えてくる。
鳥居から一直線に延びる参道は、思ったより距離を感じる。

拝殿 扁額
拝殿全景
向拝から中を覗く

三方を吹き放てる構造のようだが閉ざされていた。
神楽殿背面の扉も開扉できるようになっていて、開いていれば本殿が見通せるのだが、閉まっていた。
天皇陛下の幣帛料奉納額だけが目立っていた感がある。

拝殿の縁から渡れるようになった先に建つのは神楽殿(写真右)。
桁行五間、梁間三間の入母屋造で、こちらも手前三方を吹放つ様になっている。
やはりこの日はすべて閉ざされていた。


 
名称
青森縣護國神社
 
御祭神
青森県出身の英霊
 
創建
明治3年(1870)
 
社格等
護国神社
 
鎮座地
青森県弘前市下白銀町1-3
0172-32-0033
  朱印所 社務所
 
最寄駅
 
駐車場
無し 近隣の有料駐車場を利用
須賀神社朱印

 弘前公園はさくらの名所。
 混むけど、この時期の参拝はお奨め。  みちのく三大さくら 



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青森縣護國神社 高照神社 (約20分の走行)
有料駐車場を左に出て西濠に沿って進み次の信号を左折。
道なりに進み、弘前西バイパスに合流したら、案内標識に従って次の信号を右折し岩木山方面へ向う。
県道3号を走っていくと、高照神社0.4km→の案内標識が出てくるので、次の交差点を右折。
正面に高照神社の鳥居が見えてくるので、そのまま境内へ乗入れる。




高照神社たかてるじんじゃ弘前市高岡

高照神社概要
高照神社は、弘前藩五代藩主津軽信寿の建立によるもの。
四代藩主信政が、自らの葬地を高岡と定め遺言を残した。
宝永7年(1710)、信政の死去に際し、信寿はその遺命に従って神葬し、 正徳元年(1711)に廟所を、翌年本殿などを建立した。

その後、七代藩主信寧が拝殿を、九代藩主寧親が随神門や廟所門を造営した。

案内板によると、社殿配置は東西に一直線で、鳥居,随神門,拝殿・幣殿が並び、廊下を挟んで中門から本殿に至り、更に西方200mに廟所と墓所を配した構成になっているという。


参拝メモ
前の道路を入った所に一の鳥居が立ち、そこから真直ぐと参道が拝殿まで続いている。
参道上には、一の鳥居−二の鳥居−神橋−三の鳥居−隋神門−四の鳥居−拝殿 が一直線上に並んでいる。
下の写真、左は神橋と三の鳥居、右は振返って参道入口方面の風景。

三の鳥居、奥に隋神門が見える
二の鳥居その奥が一の鳥居

隋神門
三の鳥居の先に左右に高塀を附した丹塗りの隋神門が建つ。
江戸後期 文化7年(1810)の建造で国重文に指定されている。

三間一戸の八脚門で、鉄板葺の切妻造である。
正面及び両側面に縦連子を入れてある。
中には多少傷みが進んでいるが、随身が祀られている。

門の奥に四の鳥居と拝殿が見える。



拝殿
隋神門をくぐると、四の鳥居、その先に拝殿が建っている。 (写真は本項最上部)

江戸後期 宝暦5年(1715)の建物で、桁行七間、梁間三間の入母屋造、こけら葺で正面に千鳥破風を付け、高欄を附した縁を巡らせている。

手前に三間の向拝を設け、唐破風軒の下に極彩色の彫物がはめてある。
拝殿の外回りは丹塗、内部は弁柄塗である
背面には幣殿が接続された形で建てられいる。

幣殿の奥には中門を設け、本殿へと続いている。
建物8棟、信政公墓2基が国の重要文化財に指定されている。

 
名称
高照神社
 
御祭神
津軽信政命
  配祀神 津軽為信命
武甕槌神 (たけみかづち)他 3柱
 
創建
正徳2年(1712)
 
社格等
旧県社
 
鎮座地
青森県弘前市大字高岡字神馬野87
0172-83-2465
 
バス停
 
駐車場
有り 無料


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高照神社 求聞寺 (約5分の走行)
高照神社の駐車場を右に出て県道30号を進むとT字路に突当る。
そこを右折して道なりに進み、求聞寺の案内看板が現れたら右折して狭い道に入る。
奥に見える赤い橋(狭いので要注意)を渡ると求聞寺の駐車場がある。
岩木山神社まで行ってしまったら行き過ぎ。


求聞寺ぐもんじ弘前市百沢


飛瀧神社概要
草創は弘前藩2代藩主津軽信枚によるものである。
為信亡き後の藩主の跡目争いで荒廃した領内の安寧を憂い、大地震や飢餓が続いた平安を願い、信牧が真言密教の虚空蔵求聞持法という荒行を行った。
寛永6年(1629)、念願成就し虚空蔵堂(求聞持堂)を建立し虚空蔵菩薩を安置したのが始まりと伝えられている。

明治9年(1876)火災により焼失、明治26年(1893)に再建され昭和39年(1964)に改築している。


参拝記
求聞寺の参道は樹木の茂った石段である。
入口には鳥居が、石段を上がると狛犬が立っていて振返ると、神社?かと思わせる景色である。

参道入口
参道を振返る

参道を背にすれば、左手に鐘楼、石仏が並び、その先には本堂・観音堂など堂宇が建ち、やはり寺院だと納得する。
因みに鐘楼に吊下る梵鐘は県下一とか.....。

県下一という梵鐘が下がる鐘楼
石仏

本尊の虚空蔵菩薩は、丑年と寅年生まれの守り本尊でもある。
その為か本堂前にはブルーのウシとトラの像が立っている。

本堂
観音堂

観音堂には津軽三十三観音霊場 第3番の札所本尊である十一面観世音菩薩が祀られている。
その他にも真言宗の寺院故、弘法大師霊場の札所にもなっている。

 
名称
岩木山 求聞寺
 
本 尊
虚空蔵菩薩
 
宗 派
真言宗智山派
 
札 所
津軽三十三観音霊場 第3番
津軽弘法大師霊場 第9番
津軽八十八カ所霊場 第66番
 
所在地
青森県弘前市百沢寺沢29
0172-83-2279
  朱印所 本堂右の納経所
 
バス停
  駐車場 有り 無料
求聞寺朱印



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求聞寺 岩木山神社 (約2分の走行)
県道まで戻って右折。ほんの少し走ったら右手に岩木山神社の駐車場がある。
徒歩でも行ける距離。



岩木山神社いわきやまじんじゃ弘前市百沢


青岸渡寺概要
岩木山神社の起源は、宝亀11年(780)、岩木山山頂に社殿を建立したことに始まるといわれている。

延暦19年(800)、征夷大将軍坂上田村麻呂が山頂の社殿を再建し、更に十腰内の里に下居宮(おりいのみや)を建立し、山頂の宮を奥宮とした。
寛治5年(1091)、神宣により、十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し,下居宮の別当寺になり百沢寺と称した。
明治時代の神仏分離令により寺院を廃止、百沢寺は岩木山神社に改称した。 下居宮は、現在は厳鬼山神社となっている。

参拝メモ
傾斜の続く200m程の参道、鳥居をくぐった先にご神木の「五本杉」があった。
更に進むと、両脇は杉の大木に囲まれ何となく寂しげな雰囲気になってきた。

長い参道
ご神木の五本杉

敷石がずっと敷き詰められているが、表面がごつごつで歩きいよいとは言えない。

楼門
三の鳥居の先に神橋があり、更に進むと一段高い場所に国指定重文の大きな丹塗の楼門が建っている。

桁行16.6m、梁間7.9m、棟高17.8mと大きく、形式は五間三戸の楼門で、入母屋造、屋根はとち葺形の銅版葺。

柱は総て円柱で、禅宗様の三手先の組物で上層の高欄を付した縁を支えている。

上層も三手先詰組によって二軒繁垂木の軒を支えている。

当初は百沢寺の山門として 寛永5年(1628)に建立されたもの。
当時は上層に十一面観音像、五百羅漢像を安置していたが、廃仏毀釈で取り除かれているそうだ。

両脚部の正面側半分には縦連子が嵌められた中に随神が安置されている。
左の写真は背面から見た楼門。

楼門前の柱につかまる狛犬は何とも滑稽である。


中門
楼門の先を行くと、更に一段高い場所に中門がある。
こちらも国指定重文で、江戸中期の元禄7年(1694)に建造されたもの。
形式は切妻造の四脚門。 かつて別当寺百沢の門として建てられたものだそうだ。

朱色の建物の中にあってこの黒のコントラストは美しい。
軒下の極彩色の彫物も鮮やかである。

拝殿
中門の先は拝殿である。これもかつての百沢寺の本堂で、天正17年(1589)の岩木山噴火によって百沢寺全山が焼失した後、為信が慶長8年(1603)によって着工され、三代藩主信義の寛永17年(1640)に落成した建物だそうだ。

桁行五間、梁間五間の入母屋造で、内部を極彩色の彫刻で飾った千鳥破風を付け、一間の流れ向拝を設けている。
丹塗り一色の中、向拝の蟇股には極彩色の彫刻が施してある。

建物に付随して、特徴ある注連縄が印象的である。

拝殿内部は紅柄塗りで、百沢寺の本堂であった頃は、内陣・外陣の区切りや須弥壇などは明治の神仏分離令によって取外され神社の建築様式に改められたと言う。
しかし、蔀戸などに密教寺院建築の要素は残っている。

中を覗くと、拝殿を通し開かれた奥の扉越しに黒漆塗りの奥門を見ることができる。

この拝殿、その奥の奥門・瑞垣・本殿総てが国指定重文である。



授与所・末社
参拝を終え、戻る途中で授与所に立寄る。
授与所は拝殿付近に建っていることが多いが、岩木山神社は参道の途中、神橋の手前にある。
参道途中にある末社....と言えども小さくはない。
出雲神社と言うらしい。
授与所
末社 出雲神社

 
名称
岩木山神社
 
御祭神
岩木山大神…下記の総称
 顕国魂神(うつしくにたまのかみ)
 多都比姫神(たつびひめのかみ)
 宇賀能売神(うかのめのかみ)
 大山祇神(おおやまつみのかみ)
 坂上刈田麿命(さかのうえのかりたまろのみこと)
 
創建
伝宝亀11年(780)
 
社格等
旧国幣小社・別表神社
 
鎮座地
青森県弘前市百沢字寺沢27
0172-83-2135
  朱印所 授与所
 
バス停
 
駐車場
有り 無料
須賀神社朱印



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岩木山神社 白八幡宮 (約40分の走行)
大きくは2ルート有り、最短・最速ルートは岩木山神社を左に出て、案内標識に従い県道3号 鯵ヶ沢・弘前市街方面へ左折する。つまり先程来た高照神社まで戻り、県道30号を岩木山を左に見ながら道なりに走る。ここまで約20分ほど。
鯵ヶ沢役場方面の案内標識に従って右折。暫く走ると右鯵ヶ沢の標識があるT字路に突当るので右折。 鯵ヶ沢の中心街に出る。 鯵ヶ沢警察署と青森銀行鯵ヶ沢支店の間辺りに神社入口がある。
右手の電柱に白八幡宮の看板、左手に鳥居が見える。


白八幡宮しろはちまんぐう鯵ヶ沢


概要
白八幡宮は弘前八幡宮、浪岡八幡宮と共に「津軽三八幡」と称され、鰺ヶ沢港を一望する高台に鎮座している。

大同2年(807)、坂上田村麻呂が蝦夷退転降伏祈願所として祠宇を創立し、 大刀一口と白旗八旗を納めて白旗宮としたとされる。
田村麻呂伝説は各地に残るが、その一端なのか...。

慶長8年(1603)、弘前藩初代藩主津軽為信が武運長久国家安泰祈願所として社殿を造築し、鯵ケ沢総鎮守と定めたとある。

後に、 寛文6年(1666)、第3代藩主津軽信政により本殿・拝殿・籠舎・鳥居などが寄進されたという。

参拝メモ
境内に駐車スペースが有りそうなので、駐車させてもらった。
そこには社殿は無く、石段を上った所に色鮮やかな赤い鳥居が立っていた。

更にその先に石の鳥居が立ち、その奥に拝殿が建っていた。
桁行五件、梁間三間の入母屋造で妻入りに建て、一間の流れ向拝を付けている。

残念ながら扉が閉ざされ、拝殿内部を観ることが出来なかった。

拝殿の後ろから玉垣に囲まれた中に本殿が建っていた。

津軽の京まつり」とも称される大祭が4年に1度8月14〜16日に行われ、各氏子町から山車が集まり、鯵ヶ沢市街を練り回す。

神社からは御仮殿まで神輿渡御があり、最終日には神輿が海上を渡り、白八幡宮へ戻るという見応えある祭りらしい。

 
名称
白八幡宮
 
御祭神
誉田別尊 (ほんだわけのみこと)
白鳥大明神、素盞鳴命
 
創建
大同2年 (807)
 
社格等
 −
 
鎮座地
青森県西津軽郡鯵ケ沢町本町69
 
最寄駅
 
駐車場
有り(無料)
 
扁額 拝殿の扁額


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白八幡宮 圓覚寺 (約45分の走行)
白八幡宮を左に出て、県道3号を進む。
国道101号とのT字路を左折し、白神山地方面へ進む。
国道101号を海を眺めながら五能線に沿っていくと深浦町に着く。深浦町消防団の白い建物の先に円覚寺がある。
車は近くにある北前船を復元し、展示している風待ち舘に駐車した。

圓覚寺えんがくじ深浦町


熊野那智大社概要
円覚寺は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷東征のとき、拠点を深浦に置き、陣中で使ったかけ仏と聖徳太子の作といわれる十一面観音を安置し、観音堂を建立したのが始まりと伝えられている。

江戸時代までは、修験宗の寺であり、加持祈祷を行う山伏寺だったという。 修行道場であった見入山観音堂では多くの行者が修行をしていたらしい。 明治の神仏分離令により修験宗の廃宗に伴い、真言宗醍醐派になり現在に至っている。
総本山の醍醐寺は修験道を支配する寺院であったので、そういう経緯になったのであろう。
祈祷寺であることから、葬儀を執り行なわない無檀家寺である。

参拝記
先ずは山門から。
円覚寺に着いて目に付くのは山門である。
大正9年(1920)建立の新しい建物で、三間一戸の八脚楼門、入母屋、銅板葺。
上層の縁や屋根を支える、いわゆる三手先の組物などは見られず、シンプルな意匠になっている。

両袖に安置されている仁王像は明和5年(1768)大仏師吉田源之丞の作によるもの。

中央の天井を見上げると龍が描かれている。
また、正面には梵字が書かれている。

壁の梵字
天井の龍


金毘羅堂と薬師堂
金比羅堂(右写真)は本堂の左側に建つお堂で、天保7年(1836)建立。 円覚寺では一番古い建物かも知れない。

金比羅大権現と弁財天の幟が立っているので、それらが祀られているのであろうか....。

本堂右手の大木に囲まれて建っているのが薬師堂。 弘化4年(1847)の建立。
桁行五間、梁間三間の寄棟造、梁間方向に流れ向拝を設け入口としている。
向拝の虹梁部分の木鼻には鬼が彫られている。

薬師堂
向拝の木鼻

薬師堂内に収納されている厨子は、室町時代の永正3年(1506)に造られたもので、円覚寺で唯一の国指定重文である。

 
正式名称
春光山 圓覚寺
 
本 尊
十一面観世音菩薩
 
宗 派
臨済宗醍醐派
 
札 所
津軽三十三ヶ所観音霊場 第10番
 兼 第9番 朱印所
津軽弘法大師霊場 第12番
北国八十八ヶ所霊場 第60番

 
所在地
青森県西津軽郡深浦町大字深浦字浜町275
0173-74-2029
  朱印所 本堂
 
最寄駅
 
拝 観
入山のみ無料
 
駐車場
なし 
 
円覚寺朱印


津軽西海岸
       
弘前地区
       













仏に出会う旅

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