恵那から国道257号と国道41号を北上し、著名な社寺を参拝、飛騨市の飛騨古川を目指します。
恵那へ前日に入り、翌朝出発すれば、下呂温泉で立寄り湯も可能です。
全行程で120〜130kmほどの距離ですが、一般道利用なので走行だけでも5時間は要します。
下呂温泉に宿泊し、2日間で行程を組めばかなりゆとりある寺社巡りになります。
中央自動車道 恵那 ICを右折で出て道なりに、国道19号に出たら左折。恵那大橋を渡った先の宮の前交差点を左折してすぐ右に横断して駐車場へ。
横断が厳しい時は一旦通り過ぎ、その先で折返して戻るのが無難。
電車の場合、明智鉄道東野駅から徒歩13〜14分だが、恵那駅からでも20分ちょっとで着く。
由緒書によれば承久2年(1220)に再興されたとあるので、それ以前の創建と云うことになる。
本殿は興廃を繰返し、永禄7年(1564)に再建されたとある。
平成19年(2007)より全面解体修理を行い、平成22年(2010)6月に終了した。
鎌倉・室町時代に関わる伝承もあり、興廃を繰り返したものの、由緒ある神社であることは間違いない。
宮の前交差点付近に入口があり、 鳥居をくぐり参道を進むと、高木が茂り鬱蒼とした境内が広がっている。
社殿
手水舎の先に石段があり、突当りの一段高い位置に桧皮葺入母屋造、妻入りの拝殿が建っている。
その奥の更に一段高い位置に幣殿,本殿と続くが、参拝した時は本殿の保存改修工事の最中で、工事用の柵に覆われ全容を見ることができなかった。
拝殿(側面) 幣殿と工事中の本殿境内社
工事中で参拝できない祠もあった。
多度神社 七宮神社 御祭神:天津彦根命 御祭神:伊勢大神,多賀大神など7柱滞在中参詣者もなく、連絡先が記されていて社務所も閉ざされていた。静かな神社である。
恵那市には武並神社と称される神社が7社あり、武並七社と呼ばれているらしい。
武並神社 大己貴命 (おおなむちのみこと)(大国主命)
誉田別命 (ほむたわけのみこと)(応神天皇)
少彦名命 (すくなひこなのみこと)
承久2年(1220) 旧郷社 岐阜県恵那市大井町字森1101
0573-25-1481 JR中央本線、明知鉄道恵那駅 有り 無料 駐車場への専用通路有り
武並神社 加子母観音(約1時間20分の走行) 中津川から下呂に向う。 宮の前交差点を左折して国道19号を暫く進み、中央道中津川IC先で左分岐し国道257号をひたすら走ると左手に加子母観音が現れる。 |
加子母観音と言っても寺は無く、観音様が祀られているだけである。
ここは、(株)慈光堂という仏壇・仏具の製造販売会社の本社及び工房であった。
仏具屋さんの傍らに観音堂が建っている。
観音像は1体ではない。高いお堂に金色に輝く観音立像、岩を掘って洞窟状にした中に十一面観音坐像....と様々。
観音堂の左に、雪が降り積もったような大木がある。
ヒトツバタゴというモクセイ科の落葉高木で、俗称「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれている。
ヒトツバタゴは中国福建省原産で、日本では長崎県対馬市、岐阜県瑞浪,恵那,中津川の各市、愛知県犬山市にのみ自生し、国指定天然記念物の木もある。こちらの方に注目してしまった。
ちょうど開花の時期で、樹全体に雪を降らせたような感じである。
加子母観音 − (株)慈光堂 岐阜県中津川市加子母万賀4943
0120-17-2445売店内 北恵那交通バス 万賀 有り 無料お仏壇の慈光堂
加子母観音 地蔵寺(約30分の走行) 加子母観音前の国道257号を下呂方面へ道なりに進む。 宮地駐在所の案内標識がある交差点を右折。清水橋を渡った先のT字路を左折。そのまま直進し「ガン封じ寺」の案内看板に従って進めばよい。 |
臨済宗妙心寺派に属する寺院。
ガン封じ寺と看板にあるが、理由がよく解らない。平安時代に難病におかされる病人が多く、地蔵寺で祈願をすると難から逃げられる。と伝えられているそうだ。
境内には25体の様々な地蔵尊が安置されている。奉納された地蔵尊像を含めると800体以上だそうだ。
寺の入口に立つと参道が2本ある。右側は本堂に直結しているようだが、参拝者は帰り道として通るのであろう。左側の参道には参拝入口の看板があり、道の真ん中に「入口」書かれた石が置いてある。
こちらが入口 こちらから出る素直に看板に従って左側から境内に入る。
石の門があるだけで寺独特の屋根の付いた門は無く開放的な雰囲気である。高台なのでより一層開放感があるのかも知れない。
苦抜・楽與と記された2対の迎え地蔵尊が出迎えてくれる。
なるほど.....。
坂東30番高蔵寺の「のぞみかなえ観音」を思い出だした。
この先どんなお地蔵さんが出てくるか、期待できる予感がする。
更に歩みを進めると、おびただしい数のお地蔵さんが祀られている。
賓頭慮尊者のような「おさすり地蔵尊」 、石の輪をくぐる「輪くぐり地蔵」、「無事帰る地蔵尊」などユニークなお地蔵さんがおられる。
右側にはお馴染みの六地蔵 くぐると厄除と智慧を授かる輪くぐり地蔵の先に本堂入口がある。 向拝の虹梁にもカラフルな衣を纏った地蔵尊像が祀られている。
本堂 向拝の地蔵尊像本堂に上がって参拝するよう促され、参拝が終わると5分ほどの説明(法話ではなかったかな)があり、胎内湯(健康茶) が振舞われる。頒布品の斡旋はないけど早々に本堂から降りた。
金錫山 地蔵寺 延命地蔵願王菩薩 臨済宗妙心寺派 岐阜県下呂市宮地939
0576-26-2611本堂内授与所 JR高山本線 下呂駅 無料、木曜日は本堂内拝観は休み 有り 無料
地蔵寺 温泉寺(約20分の走行) 地蔵寺から再び国道257号に出て北上。途中帯雲橋で国道41号に合流、森交差点で標識の「下呂温泉街」に従い左へ分岐し温泉街へ入って行く。 食堂「せん田」のところを右折すると温泉寺駐車場への看板が出てくる。 路が狭く勾配もあるので運転は注意深く。 |
下呂温泉を一望できる高い場所にある臨済宗妙心寺派の寺院。
温泉寺の歴史は古く、永正4年(1507)の記録が残る「湯島薬師堂」が前身である。
温泉寺としての建立は寛文11年(1671)。開基は初代飛騨屋久兵衛の父、武川久右衛門倍良公で、禅昌寺八世剛山和尚を中興開山に迎え再興した。
下呂の泉街の高台にあり、173段の石段を上った境内からの眺望は素晴らしい。
長い石段を上り詰めた先に山門がある。....と言いたいところだが、車で上がって来ると石段をショートカットするのでそう云うレポートはできない。
しっかりと造られた門である。
山号の醫王霊山と書かれた扁額が架かっている。
何か開放的で禅宗の寺という感じがしない。
噂の眺望
訪れた人の多くがブログ等で触れているのが境内からの眺望である。
野山が美しいとかではない。下呂温泉のホテルや町並みが望めるだけのことだ。
だが、173段もの石段を、息を切らせながら昇ってきて、ふと目にするパノラマのような景色は意外と心に響くのであろう。
湯掛薬師
本堂前の小さなお堂に薬師如来の石像が坐している。
この薬師像は「湯掛薬師」といい、台座の部分に温泉が湧いている。それを柄杓に汲んで身体の痛い部分に掛けお参りすると説明されている。
賓頭盧尊者の湯掛け版といったところか。
特に痛いところは無いが、将来的に膝が痛むであろうと想定し薬師さまの膝に掛けてみた。
二つの本尊
写真だけ見るとどっちが本尊? と思うかも知れないが、温泉寺の本尊は左写真の薬師如来で本堂に祀られている。こちらは中部四十九薬師霊場 第37番の札所本尊でもある。
では、右側は....境内右手に建つ普明堂で、中に祀られているのは観世音菩薩。こちらは益田西国三十三ヶ所霊場 第18番の札所本尊になっている。
本堂 普明堂鐘楼・野仏古道
下呂温泉の街並を見下ろす一番景色の良い場所に建つ鐘楼は、二重軒の入母屋屋根、組物などしっかりとした構造である。
本堂右手にある山にはたくさんの石仏が点在する「野仏古道」というのがある。
せっかく訪れたのだから巡って見るのも良い。
鐘楼 野仏古道
醫王霊山 温泉寺 薬師如来 臨済宗妙心寺派益田西国三十三ヶ所霊場 第18番 岐阜県下呂市湯之島680
0576-25-2465授与所 JR高山本線 下呂駅 日没まで 有り 無料 道狭し下呂温泉 温泉寺
温泉寺 禅昌寺(約8分の走行) 下呂から国道41号(益田街道)を高山方面に向うと、高山本線がオーバークロスしてくる先に禅昌寺の案内標識が出てくる。空かさず次の路地を右折。突当りが禅昌寺である。 |
禅昌寺は飛騨の戦国大名 三木氏の菩提寺で、後奈良天皇より「十刹」の綸旨を授かるという高い寺格を有した名刹である。
最高位の寺格を表す五条の定規筋を入れた筋塀(築地塀=ついじべい)を巡らせるなど寺格に見合った風格を備えている。
勅使門と玄関
門前に掘割を設け、山門とは別に勅使が渡る橋や勅使門を備え、そこから通ずる玄関の唐破風向拝の蟇股には、皇室勅願所の証である菊の紋が付されている。
山門を入ると目の前に大庫裏が建っている。その大きさに驚くが、妻面の漆喰と柱との造形美が何とも云えない。禅昌寺はこの庫裏や本堂など中国宋朝様式を伝える建築物を見ることができる。
ここで拝観受付をし中に入る。
本堂・書院
本堂は「大本坊」と称され、宋様式の大きな建物である。文政12年(1829)に再建されたものだそうだ。
雪舟の筆による「八方にらみの達磨」といわれる大達磨像などが手軽に拝観できる。
庭園(県指定名勝)
書院の裏手には茶道宗和流の祖、金森宗和の作庭といわれる池泉回遊式の名庭「萬歳洞」がある。
約104平米の広さで、傾斜を生かし、巨石を段組みにしたた立体的な構成で、飛騨で最も美しいと言われる名庭である。
金森宗和は、実の名を金森重近といい、戦国武将で飛騨高山藩2代藩主金森可重の長男である。父可重を批判したことで廃嫡され、母共々京都に隠棲し、大徳寺で禅を学び剃髪して「宗和」と号するに至った。茶道を極め茶道宗和流の開祖となったが、茶道だけではなく作庭にも秀でている。
禅昌寺の大スギ
堂内を巡っていくと、花頭窓から推定樹齢1,200余年という国指定天然記念物の大スギが見えた。傍に行くと、目通り12m、樹高45mは大きい。
観音堂と無影堂
庫裏から最後の無影堂まで回廊で繋がっているので、見逃すことなく拝観することができる。
観音堂は上に金色の宝珠を乗せた宝形造りで、文久3年(1863)に改築された堂宇である。
観音堂は「圓通閣」と称し、益田西国三十三所観音霊場 第33番の札所で、欄間に御詠歌「これやこの まろくかよへる法の庭 ゆかりの梅の 残る古寺」の扁額が掛けられている。札所本尊の聖観音菩薩は岩屋観音と称され、天台宗の僧「源信」(恵心僧都)の作と伝わる。
観音堂左に隣接する白壁のお堂は「無影堂」と称され、位牌堂のようだ。
鐘楼
堂内の拝観を終え庭に降りてみる。
整然と区画された庭の山門脇に鐘楼が建っている。 嘉永3年(1850)の再建だそうだ。
袴腰を付したどっしりした感じで、入母屋屋根の二重軒や二手先の斗拱・蟇股など立派な組物が美しい。
この高さだとかなり遠方まで鐘の音が響き渡るであろう。
龍澤山 禅昌寺 釈迦如来・観世音菩薩・薬師如来 臨済宗妙心寺派 益田西国三十三霊場 第33番
新四国飛騨八十八霊場 第68番
中部四十九薬師霊場 第38番
岐阜県下呂市萩原町中呂1089
0576-52-1353拝観受付 JR高山本線 禅昌寺駅 8:30〜16:30 11〜3月 〜16:00 拝観料:300円 有り 無料
禅昌寺 久津八幡宮(約13分の走行) 禅昌寺から再び国道41号に出て高山方面に進むと、久津八幡神社を示す案内標識が出てくる。 右側に注意していると、鳥居の前が踏切という光景が現れる。 ここが久津八幡宮だが、この踏切から車は入れない。少し先の踏切を渡り線路の向こう側を戻るように進む。 |
由緒書によると、仁徳天皇の御代(377年頃)飛弾の国に両面宿儺という、怪賊がいて時の天皇は弟の難波根子武振熊命を飛弾の国に遣わし、宿儺を討って飛弾の国を平定開拓された。
この時武振熊命は、御父応神天皇の御霊をお祀りして、武運長久と国土平安を祈られたのが久津八幡宮の始まりであると伝えられている。
応永19年(1412)に飛騨の国領主白井太郎俊国が現在の本殿を再建し、天正9年(1581)には飛騨の国領主三木自綱によって現在の拝殿が建立された....とある。
社務所は閉まっており、祭祀時以外は不在のようだ。
国指定重文の拝殿及び本殿、国指定天然記念物の夫婦杉など見どころの多い神社である。
拝殿
踏切から正面の鳥居の先に見える「八幡宮」の扁額が掛かる建物は国指定重文の拝殿である。
桁行五間、梁間四間、柿萱の入母屋造で、桃山時代の天正9年(1851)建立。飛騨の匠、桂川孫兵衛の手によるものだという。
建立以来数回の修理が施されているが、構造形式は当初のままだそうだ。
四本の囲い柱によって内陣の形を形成している拝殿は珍しいとされている。
本殿
拝殿より一段高い位置に建つのが文政10年(1827)建立の幣殿で、その背後に国指定重文の本殿が建っている。
三間社流造、柿萱の本殿は室町中期応永19年(1412)に再建されたものである。
飛騨の匠によって彫られた蟇股の2羽の鶯は、「鳴鶯の蟇股」と称され、ホケキョホケキョと鳴いたと謡われているんだそうだ。
拝殿に庇下に造作された鯉、矢などと同様に貴重なものだ。夫婦杉
樹齢1500年といわれる杉の大樹が2本ある。境内社の両側に玉垣を回らせ立っている巨杉、それぞれ雄と雌の樹で「夫婦杉」と呼ばれている。
樹周り12.5あり、国の天然記念物に指定されている。
写真は雌の杉。
参道に線路が横切っているのも珍しい。踏切警報機が鳴ったので振返ると、”ワイドビューひだ”が全速力で走り抜けて行った。
美魂神社
夫婦杉の間に小さな社が建っている。
「美穂神社」と彫られた社号標が立ち、小さいながら石の鳥居まで備わっている。
境内社にしては立派だと思ったら、戦没者239柱の英霊を祀る神社であった。
宝物
久津八幡宮の宝物が写真入で掲示されている。
国指定重文の拝殿・本殿の他、県指定重文の獅子頭2体、市指定重文の円空仏3体、書写などが説明されている。
久津八幡神社 応神天皇 (おうじんてんのう)
天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
春日大神 (かすがのおおかみ)伝:仁徳天皇65年(377) 旧県社 岐阜県下呂市萩原町上呂2345-1
0576-52-1240 JR高山本線 飛騨萩原 徒歩18分 有り 無料 駐車場専用入口有り南飛騨総鎮守久津八幡宮 宝物の看板
久津八幡宮 水無神社(約55分の走行) 久津八幡宮から国道41号を北上。ENEOSのスタンドがある一之宮交差点を右折すると正面に水無神社が見えてくる。 駐車場は神社に向って左側にある。 飛騨川に沿って約1時間前後の走行となる。 途中、沿道に道の駅飛騨街道なぎさがあるので、休憩等にお奨めである。 |
水無神社は飛騨国の一宮として、西南方の位山(くらいやま):標高1,529mを神体山として祀る神社で、飛騨国の鎮守として古来より飛騨人の心の拠り所となっている。
創建時期は不詳であるが、由緒によると...平安初期の貞観9年(867)に従五位上の神位を授けられ、元慶5年(881)には従四位上に昇叙され神位も累進した。
中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無大菩薩を称するようになった。 安永2年(1773)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地になったとの事。
明治時代の神仏分離令に基づき、仏像や仏教関係の古文書等多くを撤去し、明治4年(1871)国幣小社に列格した。
正面入口には右側に「飛騨一宮水無神社」、左側には、これはかなり古い「國幣小社」と彫られた石標が立っている。
その間にある数段の石段を上がると大きな鳥居が立っている。
左手を見ると、旧拝殿として使われていた絵馬殿が建っている。
絵馬殿(旧拝殿)
絵馬殿は慶長12年(1607)高山城主金森長近が拝殿として造営したとあり、後の明治時代、高山県知事の命による社殿造営の際、様式を神明造に統一したことで、入母屋造だった拝殿は不釣合いとして取り壊した。
だが、氏子達は建材を保管して置き、明治12年(1878)浄財を募り拝殿再興を遂げたという。
神門・回廊
正面に神門があり、そこから回廊が廻らされている。回廊は正面の拝殿へと回っているが、通常一般参拝者の礼拝は神門から行う。
左右の回廊には飛騨国中の主要な神々と産土神などの八十八社が祀られている。社号を記した札が掛けられているが、回廊を通らなければ見ることができない。
拝殿
神門から石畳が真直ぐに延びた先に拝殿がある。
回廊が接続されているので、この位置(神門)から本殿を覗うことはできない。
賽銭箱が置いてあるので?と思ったが、聞くところによると、正月などは神門の脇の扉が開いており、直接拝殿で礼拝できるらしい。
白川神社
神門手前右手には末社白川神社が鎮座している。
白川神社は御母衣ダムの建設により湖底に沈んだ、白川村の2つの集落に鎮座していた白山神社2社を合祀して白川神社として水無神社に社殿を建立遷座させたものである。
御祭神は菊理姫命(くくりひめのみこと)で、白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされている。
神馬舎
白川神社の右側に神馬舎が建っていて、中には白黒2頭の神馬が安置されている。
左甚五郎の作と伝わる黒駒の方は両目が抜き取られている。
夜な夜な厩舎を出て農作物を荒らしたとして村民が黒駒の両目を抜き取ったところ、その後耕作地を荒らすことが止んだとの伝承がある。
まあ、在りがちな物語だけど......。
水無神社 御歳大神 (みとしのおおかみ)
不詳 旧国幣小社・別表神社・式内社(小)
岐阜県高山市一之宮町5323
0577-53-2001社務所 JR高山本線 一之宮駅 有り 無料飛騨一宮水無神社
水無神社 本光寺(約45分の走行) 水無神社から再び国道41号を北上。 混雑する高山市街地を通らず高山国府バイパス経由で飛騨市の古川町へ。 古川バイパスの南成町(なんせいちょう)交差点を右折、増島町を左折し霞橋のアーチ橋を渡ったら右手に本光寺が見えてくる。 |
三寺まいり 本日最後に巡るのは古川町の「三寺まいり」の寺院。
三寺まいりは飛騨古川に300年前から伝わる伝統行事。
親鸞聖人の遺徳を偲んで町内の浄土真宗の3ヶ寺を参詣したのがはじまりとされている。
かつては、飛騨から野麦峠を越えて信州の製糸工場へ女工として出稼ぎに行った娘達もこの時期帰省し、着飾って三寺を巡拝した。これが若い男女の出会いの場となり、縁結びのお参りに発展していった。
現在では、毎年1月15日の夜に和服に着飾った娘さんが恋愛成就を祈願し、千本ろうそくに火を灯す行事が行われている。
恋愛成就の祈願をするときは白いろうそく、願いが叶ったら赤いろうそくを灯すのだそうだ。
荒城川沿いに建つ本光寺は三寺まいりの一寺で、浄土真宗本願寺派に属す古刹で、天文元年(1532)の開基だそうだ。
開基本尊である紙本墨書方便法身像蓮如裏書(縦40cm・横20cm)と絹本著色方便法身像(縦58cm、横27.5cm)は文明17年(1485)に円実(白川嘉念坊第十世明心の弟子)が蓮如から下付されたと伝えられているもの。
野麦峠女工哀史縁の文学碑がある本光寺の本堂は、明治37年(1904)の大火で焼失した後再建された堂宇で、十四間四面総檜造りは、飛騨市最大の木造建築物といわれている。
木鼻もさることながら、正面虹梁の彫物も素晴らしい。中央には親鸞聖人縁の仏光寺藤の寺紋が彫られている。
梵鐘の大きさの割には大きい感じの鐘楼。その脇に立つのは親鸞聖人像。お寺でよく見かける弘法大師像ではない。ここは浄土真宗の寺院。
総欅造りの山門は、古川の名工として名高い山脇八尋の作。
組物の妙技をじっくり眺めていたい建造物である。
三寺まいりは専用の「朱印輯録」を購入し、寺を巡り朱印を押す。
白豹山 本光寺 阿弥陀如来 浄土真宗本願寺派 三寺まいり
岐阜県飛騨市古川町弐之町1-17
0577-73-2938本堂前 JR高山本線 飛騨古川駅 有り 無料(境内)
本光寺 円光寺(徒歩約3〜4分) 本光寺から白壁土蔵街を目指し散策気分で歩く。 瀬戸川に出たら、鯉などを見ながら川沿いを歩くと右手に円光寺がある。 瀬戸川沿いからも境内へ入れるが、ここは正面からアプローチ。 |
三寺まいりの一寺。創建は永正11年(1514)、垣株堂という道場として開かれたのが始まりと伝えられる。
当初は津江村にあったが、元和7年(1621)に現在地に移り、慶長8年(1603)に正覚寺と改称し、更に元禄4年(1691)に現在の円光寺に改称している。
飛騨古川のシンボルともいえる瀬戸川と白壁土蔵街の横に建っている。 1月15日に行われる三寺まいりの「千本ろうそく」の会場に一番近い。
道路に面し「浄土真宗本願寺派 円光寺」の表札が掛かる石柱が立っていて、そこから山門へと石畳の参道が延びている。
山門
写真右上の山門は、「天正年間に秀吉の命により飛騨を平定した金森長金の女婿、可重にかかる増島城が元和5年(1619)一国一城の幕命により廃城された際にここへ移築したもの」と案内板に記載がある。
乗越し屋根が付され一風変わった雰囲気を漂わせている。
本堂
山門から真直ぐに延びた石畳の先に建っているのが本堂。
円光寺は永正11年 (1514)の開基で、本堂は寛文7年(1667)に再建された建物である。
明治37年の古川の大火を免れ、三寺の中では最も古い本堂と言われている。(屋根は葺きかえられているが)
七間四方の建物に入母屋屋根を乗せ流れ向拝を付けたよく見るタイプの形状だが、高い棟が印象的で、懸魚なども立派である。飛騨の匠の成せる業なのか。
周囲は硝子戸で蔀戸が付けられ、高欄を付した縁を廻らせている。
本堂の右側には回廊が設けられ、庫裏へと繋がっている。
鐘楼
山門の脇に建つ鐘楼も組物が素晴らしい。
三手先の 斗拱・二軒で大きな屋根を乗せ、更に入母屋の妻部分にも組物を設け棟を高くしている。
大棟の鳥衾や棟紋が付けられているなど立派な鐘楼であるが、どことなく頭でっかちな感じがする。
照耀山 円光寺 阿弥陀如来 浄土真宗本願寺派 三寺まいり
岐阜県飛騨市古川町殿町11-11
0577-73-2954本堂前 JR高山本線 飛騨古川駅 有り 無料(境内)
円光寺 真宗寺(徒歩約3〜4分) 円光寺の門を右に出てそのまま進むと正面に朱色の欄干の今宮橋が見えてくる。 橋の手前右側が真宗寺である。 |
三寺まいり最後は荒城川沿いに建つ真宗寺。
文亀2年 (1502)に開基。敬重7年(1602)、東本願寺末となったが、後の宝永2年(1705)に西本願寺に転派したと朱印輯録に記載してあった。
本堂は本光寺同様、明治37年(1904)の大火で焼失し、その後再建されたという。
大正12年 (1923)に本堂に金箔工事が行われたそうだ。
円光寺の本堂とよく似ているが、蔀戸ではなく折戸が建て付けられている。
山門
真新しい感じの山門だがよく見ると飛騨の匠の技が随所に見られる。を入ると、数段低い位置に境内が広がっており本堂へと石畳が続いている。
左の写真で、参道から山門を振返ると境内側が低くなっているのが分かる。
境内の建物の配置は円光寺に良く似ている。山門の正面に本堂、左手に収蔵庫のような白壁の建物、右手は庫裏、山門を入ったすぐ左側に鐘楼とまるで統一したような配置になっている。
鐘楼
他の2ヶ寺と同じ構造をしている。入母屋屋根の形、三手先の 斗拱・二軒などまるで意匠を統一したかのようである。
三寺まいりも無事終了。駐車した場所まで戻り今宵の宿へ。
明日はここ飛騨古川よりスタート。
朝光山 真宗寺 阿弥陀如来 浄土真宗本願寺派 三寺まいり
岐阜県飛騨市古川町三之町3-10
0577-73-2730本堂前 JR高山本線 飛騨古川駅 有り 無料(境内)
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