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13番別願寺 3番安養院14番来迎寺 13番別願寺からは、大町大路を左に進むとすぐにツツジの生垣があり、生垣が終わったところに入口がある。 別願寺から約85m、2分ほどで着く。 |
大株のつつじが植わった石垣に囲まれている。この石垣が終わったところに安養院の入口がある。
「坂東第三番田代観音」と大きく刻まれた標柱が立っている。
坂東三十三観音の札所にもなっているので、今回訪れた中では参拝者の多い札所である。
概要
安養院は浄土宗の寺で、以前は浄土宗名越派の本山であったが、後に京都の知恩院末寺となった。
山門を入ると、境内は緑に覆われ、正面の本堂へ石畳が続いている。 大きな向拝をもつ本堂は、昭和3年(1928)に再建されたもので、向拝には『祇園山』の扁額が掲げられている。
本堂には本尊の阿弥陀如来、千手観世音菩薩、北条政子の木像が祀られている。
安養院にまつわる歴史
安養院の前身は良弁尊観が開山した浄土宗の善導寺であった。
高禄元年(1225)、源頼朝の妻北条政子は、夫の菩提を弔うため、笹目ケ谷に願行律師を開山とし、律宗の祗園山長楽寺を建立した。
ところが、政子は同年七月に死去し、長楽寺へ葬られることになった。
北条泰時は長楽寺の七堂伽藍を整備し、政子の法名「安養院殿如実妙観大禅尼」から寺の院号を安養院とした。
元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めにより長楽寺は焼失してしまった。
善導寺も兵火で焼失し、その跡地に長楽寺と政子の墓を移し、寺を再興した。
北条政子の墓
政子の墓に関しては、本堂裏側に政子の墓とされる宝篋印塔がある。
高さ1mほどのかわいらしい塔である。
(向って左側)
宝篋印塔は二基あって、もう一つは高さ3mほどの大きなもので、徳治3年(1308)の銘があり、鎌倉最古の宝篋印塔とされ、国指定重文になっている。
身代地蔵尊
宝篋印塔の右手には、身代地蔵が横たわっている。
何とも愛らしい寝姿に、思わず頭を撫でてしまった。
さて、悲運は終わらず、延宝8年(1680)、町中からの火で全焼してしまった。
安養院近くの比企ケ谷に田代観音堂があった。安養院再建時に、この田代観音堂を安養院に移したことにより安養院は、田代観音とも呼ばれるようになったとのことである。
田代観音
札所本尊の田代観音(千手観世音菩薩)は、政子が父時政の反対を押し切って、この観音さまに願いをかけ、頼朝と結ばれたといわれる所以から、この観音さまは「良縁観音」と呼ばれ、縁結びの観音さまとして多くの信者を集めるようになった。
日限地蔵尊
境内に日限地蔵が祀られているお堂がある。石像の地蔵尊像は南北朝時代ものといわれる。
お地蔵さんは、お堂に比べ大きい。しかも坐像である。立像は良く見かけるが、坐像は珍しい。
安養院のお地蔵さんは、坐ったり、寝ていたりでなかなか面白い。
このお地蔵さんに日を限って願をかけると、必ず叶えてくれるという。
それで、日限地蔵.....?
このお地蔵さんは、鎌倉二十四地蔵尊霊場 第24番の札所本尊である。
地蔵堂の脇に、いぬ槇の大樹がある。目通り3mで、鎌倉第三の大樹といわれ、鎌倉市の天然記念物に指定されている。
創建 | 嘉禄元年(1225) | ||||
開基 | 北条政子 | ||||
開山 | 田代信綱 | ||||
拝観 | 8:00〜16:00 | ||||
最終受付 15:45 | |||||
拝観料:200円 | |||||
鎌倉33観音 |
坂東3番 |
納経所 | 山内右手にある建物に納経窓口がある。 昼休みの時間帯は不在で受付不可なので、訪問時間には要注意。 ツツジの開花時期は混雑するので、巡礼が目的ならこの時期は避けた方が賢明かも。 また、坂東三十三観音の札所でもあるので、団体の巡礼がある時は納経所が混雑する。 |