諸國放浪紀
 
 
今回スポットを当てたのは「鎌倉」そのものではありません。鎌倉の仏像に親しみ、仏像を通してその背景にある歴史・文化を訪れ、古都の美を目と頭と肌で観ていく「古都の訪ね方」をご紹介したいと思います。

本編は、大和市在住の重村氏より貴重な体験記事を寄稿戴いたものです。
氏は鎌倉シティガイド協会主催のイベント「鎌倉仏像散策」に参加され、この記事を纏められました。

     
   
     

第1回 山ノ内(北鎌倉)界隈
     
 
コース : 東慶寺 〜 浄智寺 〜 建長寺 〜 円応寺
 
     
 

北鎌倉駅に集合したのですがこの日は小雨模様の上、季節はずれの寒い日でした。
傘をさして、三ゝ、五ゝ登校する黒いストッキングをはいた女子高校生がひどく新鮮に写りました。
駅前の道路(鎌倉街道)を渡ったところで、先生より

ここが円覚寺の北外門の跡で、横須賀線は円覚寺の境内でした。海軍の物質運搬の為に土地を削られて、横須賀線は明治22年に開通したのですよ。

との説明で東慶寺へ向かい、このイベントがスタートしました。

 
 東慶寺  とうけいじ : 鎌倉市山ノ内1367
     
「駆込寺」として有名。開山は北条八代執権時宗の妻覚山志道尼。弘安八年(1285)創建、当時より「縁切寺法の勅許」を得て明治三十五年まで尼寺。その後男僧の住寺により護られている。
     
江戸中期以降450通の縁切り文書が残っており、一例として

書状 があり、正文之助がともどの(堂茂殿)宛に寺役所へ提出したもので、所謂 
‘三下り半’と言われるものです。(これは先生の資料)
‘三下り半’の文には必ず「今後一切誰と縁組みしても構わない。」言う言葉を入れなければならないとか、持参金は全部返却しなければならなかった等、男側にとっても離婚は大変な事だったそうです。
阿弥陀如来
この寺には有名な学者・文人のお墓がある事でも知られており、
鈴木大拙・安倍能成・岩波茂雄・高見順・西田幾多郎・和辻哲朗・東畑精一・小林秀夫.........等そうそうたる方のお墓があり、安倍能成、西田幾多郎、岩波茂雄のお三方は並んでありました。
同世代の方々ですから生前から仲良くされていたのに違いない、と想いつつ手を合わせました。
さて、仏像の話しですがここには重要文化財の聖観音菩薩像等があって、それらの仏像を教材に基本的な事を教えてくれるわけです。
例えば......
 
如 来 …
既に悟りをひらき、人々を救う一番偉い仏さまで、頭がパンチパーマ(螺髪。ラハツと言う)が見分けるポイント。
 
菩 薩 …
悟りをひらき如来になるために修行中で、人々も救う。
仏像の見分け方としては,
釈 迦 …
手を開らいていて指は丸めていない。
阿弥陀 …
指を丸めている。
薬 師 …
手に薬壷を持っている。
釈迦如来の開いた手は、
 
左の下を向いているのは …
与願印 (ヨガンイン)と言って願いをかなえる印。
 
右の上を向いているのは …
施無畏印 (セムイイン)と言って不安を除く印。
         

と言った具合に実物を示しながら教えてくれるのですが、これがなかなか頭に入りません。しかも仏像制作には三十二の基準(三十二相の儀軌)があって.....。と資料をもらってもとても覚えられません。
 
せいぜい
仏さんは大きい耳を備えていて人々の話しを良く聞いてくれる。
仏さんの性は中性。
仏像を拝む最も良い場所は坊さんが座る位置。 (ここが仏さんの目線と一致するところだから、との事。)
両手の手のひらを合わせて合掌するのは、右手が仏、左手は自分を表わしている。
位が頭に入る程度で、先行きが思いやられました。
なお、東慶寺は鎌倉で三番目の金持ち寺で、450石もらっていたそうです。
(一番は鶴岡八幡宮、二番は円覚寺)

 

 浄智寺  じょうちじ : 鎌倉市山ノ内1403
     
総門前に‘甘露の井’と言う鎌倉十井(∴1)の一つがある小じんまりとした名刹で、鎌倉五山(∴2)の第四位の寺格をもつ。弘安四年(1281)創建。
代々高僧が住職に迎えるられた禅刹で多くの建造物があったが、関東大震災で倒壊してしまい現在のは再建されたもの。
     
三世仏像 この再建された仏殿に本尊の三世仏があります。これは県の重要文化財になっている阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来のみほとけ。
 
室町時代に再興された。鎌倉の仏像はこの様に室町時代のものが多い。(鎌倉時代のものは焼滅してしまった。)
残念な事にこの仏殿には入る事が出来ず、格子越しに拝観するのですが、中は照明もなく暗くて良く観られませんでした。(これ以来、懐中電灯を持参することにし役立ちました)
 
境内には随所に石塔(地・水・火・風・空の五輪の塔)を見かけましたが卵型のものがあり、これは住職のお墓との事。また‘そとば’(卒塔婆)のギザギザはこの五輪を簡素化したものと教えてもらいました。
石で五輪塔を作るのはお金がかかるので木板になったそうです。
 
(∴1)鎌倉十井:海蔵寺の前には‘底脱の井’があったり、それなりに
    謂れがある様ですが“十井”と十ケ所指定してあるのは観光目的との事。
(∴2)鎌倉五山:一位 建長寺、二位 円覚寺、三位 寿福寺、四位 浄智寺、五位 浄妙寺。
 
 建長寺  けんちょうじ : 鎌倉市山ノ内8
 
我国最初の禅宗専門道場として建長五年(1253)創建、以来その威厳を保ち鎌倉五山第一位の格式。臨済宗建長寺派の総本山。今でも僧の托鉢が行われている。
毎土・日曜日P.M5:00〜P.M6:00 座禅会があり参加無料で解放されている。
 

地蔵菩薩 ここの本尊はお地蔵さん。私も初めて知ったのですがこの地は昔「地獄谷」と呼ばれた処刑場の跡だそうで、そこに建てられた寺の本尊がお地蔵さんと言うのはいかにもこの地にふさわしいと思いました。
 
地蔵菩薩は地元の大衆の人々の不安を除き、地獄までもやって来て手を差しのべてくれるのですから。
この地蔵菩薩坐像も暗くて良く拝観出来なかったのが残念でした。

ここでは種々な文字や言葉の意味・謂れを教えてもらいました。
 

 
方丈 ……
禅院で住持の住む場所。一丈(約3m)四方(約4.5畳)の広さの部屋で昔の住職の居室はこんなに簡素だった 。
 
 
 
法堂(ハットウ)……  
禅院で住持が人々に法を説く建物で、他の宗の‘講堂’に相当。
 
 
大仏 ……
額までの高さが一丈六尺(約4.8m)までの仏を言い、坐像の場合はその半分。建長寺の地蔵菩薩坐像は一丈六尺で丈六地蔵と言われる。‘丈六’は大仏の最小単位。
 
 
 
けんちん汁 ……
出どこは‘建長寺汁’からきているもので、野菜の切り屑を捨てる事なく細かく刻んで汁に入れて食した。
そう言えば建長寺の前に‘けんちん汁’の店がありました。
 
 
 円応寺  えんのうじ : 鎌倉市山ノ内1543
 
建長寺の前の急な石段を登った所の小寺で、建長二年(1250)創建。閻魔大王像を中心に十王像が安置されている。
 

本尊の閻魔(エンマ)大王坐像にドギッとさせられました。
 
円応寺 と言いますのは、まず本堂に入ったとたんの雰囲気が異様なのです。
 
広さはせいぜい7〜8m×12〜13mの土間で壁面三面には
閻魔大王坐像を中心に十王像が並んで坐して土間を見下ろしており、土間には数ケの長机があってそこに観光客は座る様になっています。
‘冥土の裁判所’はこんな所なのかなー、と思わせる雰囲気があるのです。
 
入り口すぐの右側には「
奪衣婆(ダツエバ)」像が坐していて、

三途の川を渡って来た亡者の着物を剥いで、近くの木の枝(「衣量枝」と言う。)にかけ、それの垂れ下がり具合で生前の罪の重さを判定する役目をするんですよ。

との説明。
 
閻魔大王坐像これが終わってから十王による生前の行いの取り調べがあり、閻魔大王が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の何処に生まれ変わるかを決定するんだそうです。
 
閻魔大王の顔は“口を開き気迫のある凄まじい表現の容貌”で、鎌倉時代の仏師運慶の作(国の重要文化財)。これは運慶が今風に言えば臨死体験し、閻魔大王の前に引き出された時、
『汝が我が姿を彫刻し、それを見た人々が悪行をしない様になるならば、娑婆に戻して上げよう。』と言われて作ったとの謂れがあります。

そう言えば、未だ記憶が定かでない小さい頃、『悪い事をすると閻魔さまに舌を抜かれるぞ。』なんて言われた様な気がします。
ドギッとしたのは、こう言う小さい時の記憶を呼び起こされたのかも知れません。
 
鎌倉時代はこの様な思想が盛んだったようですが、私の両親の時代の人までは受け継がれていたのですね。
それが、私は子供にこんな事は言ってませんから、この思想は跡絶え‘閻魔さま’は忘れられるのでしょうか。
なんだか歴史上の責任を果たさない様で、これでは冥土へ行ったら閻魔さまに舌を抜かれ、「地獄行き」を命じられるのかな...  と嫌な気持になります。

閻魔大王の写真は円応寺殿のご厚意により、許可を戴いて掲載したものです。
  理由の如何に拘わらず、画像データの転載は禁止致します。

 
 
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