諸國放浪紀 鎌倉仏像散策
 
第4回 大町・小町・雪ノ下界隈
  

コース :教恩寺 〜 元八幡宮 〜 辻の薬師堂 〜 常栄寺 〜 妙本寺 〜 日蓮辻説法跡 〜 宝戒寺 〜 鎌倉国宝館

 
  第1回 山ノ内界隈 第2回 雪の下・扇ヶ谷界隈 第3回 極楽寺・長谷方面
  第4回 大町・小町・雪ノ下界隈 番外編 十二社・二階堂  
 

いよいよ最後のコースは鎌倉駅東側を南から北へ向かって歩くのですが、この鎌倉東南地域には何故か知りませんが、日蓮宗の寺院が多いところです。
それにしても、この日は一日目と打つて変わってとても暑い日でした。
 
 教恩寺   きょうおんじ : 鎌倉市大町1-4-29
 
民家に入る様な狭い路地を入ったところの小さい寺で、鎌倉七時宗の一つ。
開山は一遍と共に念仏を説いた知阿上人。もと材木座にあった寺。
 

一般には拝観出来ませんが、座敷に上がって拝観させてもらいました。
ご本尊は阿弥陀三像。中央の阿弥陀如来像は運慶様式の寄木・玉眼入り。右に観音菩薩、左に勢至菩薩が安置され、典型的な阿弥陀如来迎像。いずれも鎌倉初期の作で、県重文。

教恩寺のあるところは鎌倉時代、米を扱う店がならんだ米座のあった所。近くには魚座。座は全部で七つあり、商人を各座に集め商売をさせたとの事。今も名前が残っているのが‘材木座’。
 

 元八幡宮  もとはちまんぐう : 鎌倉市材木座1-7
 
治承四年(1180)頼朝が鎌倉に入った最初の場所。正しくは由比若宮。
頼朝が神意を占った社があり、八幡太郎義家が修復した社殿と謂われている。
 
門を入ったところに‘義家公旗立の松’がありました。(径70cm、高さ1m位の切り株で、中をくりぬいてあるもの。)
また、近くに芥川龍之介が居住していた跡と言うアパートがあります。(これも正確かどうか意見が別れているそうで、僅か数十年前の事でもこの調子ですから歴史というは難しいものなのですね。)
 
 辻の薬師堂  つじのやくしどう : 鎌倉市大町2-4-20
 
辻の薬師堂 横須賀線を渡った所の小さいお堂。この辺は長善寺と言うお寺があった所ですが、本堂が横須賀線の敷設位置にあった為、有無をいわされず取り払われ長善寺は廃寺となりました。
 
その本尊の薬師如来像、脇侍像、そして十二神将像がこの小さいお堂に押し込められたそうです。
格子の窓から懐中電灯で中を覗くのですが憐れなものです。国家の富国政策の為には止もう得なかったのでしょうが、歴史の陰の部分を見る思いがしました。
もっとも薬師如来像と十二神将像の二像は鎌倉国宝館に収められ、後で拝観する事ができました。
 
この辻の薬師堂からは北上して、日蓮ゆかりの常栄寺〜妙本寺〜日蓮辻説法跡と歩くのですが仏像はありません。と言いますのは日蓮宗は仏像を拝まず、ただ『南無妙法蓮華経』と唱える事で人は救われると言う教えのため。
 
 常栄寺  じょうえいじ : 鎌倉市大町1-12-11
 
常栄寺 俗に「ぼたもち寺」と言われるお寺。日蓮上人が竜ノ口の刑場に引かれていく時、ぼたもちを作って上げた事に由来。勿論今では、ぼたもちは作ってないのですが、若い女性観光客はそれを求めるそうです。
 
(ただ日蓮上人が難に遭われた九月十二日、片瀬にある竜口寺のお像には毎年ぼたもちを供えているようです。)
 
 妙本寺  みょうほんじ : 鎌倉市大町1-15-1
 
開山は日蓮の弟子日朗で、比企一族滅亡六十年後の文応元年(1260)創建。
日蓮宗の名門寺院で比企一族の菩提寺。
 

大きな総門を入ると、杉の巨木に囲まれた長く続く参道。日照りの中を歩いて来ましたのでここに入ってホッとしました。
 
妙本寺この木陰で妙本寺にまつわる話しを詳しく聞きました。

この地は幕府の重臣比企能員(ヨシカズ)の屋敷の跡。
比企の尼は頼朝の乳母で、比企氏は頼朝流刑中の二十年間援助した。(当時の乳母は乳を与えるだけでなく、成人になるまで面倒をみた。比企氏は現在の埼玉県比企郡の人。)
頼朝はそれに報いて比企一族を重要御家人とするなど厚く遇した
比企の娘若狭局が頼朝の子頼家(二代将軍)の妻だったのが悲劇の始まり。
頼家と若狭局ほ間に生まれた子供(一幡丸)を三代将軍にしようとする比企氏が、実頼(頼家の弟。三代将軍。)側の陰謀に遭い比企一族は抹殺された。

山門を入ったすぐ右に僅か六歳で亡くなった一幡の袖塚や、その奥には一族や共に亡くなった百余名の武士の墓があり、一瞬気の引き締まるのを覚えます。
   

 日蓮辻説法跡  にちれんつじせっぽうあと 
 

若宮大路よりもう一つ東側の通り(小町大路)にあるこじんまりした空地。柵の中に石碑や腰掛石がありますが、本当の説法跡は少し離れた所にあったそうです。
しかし、この辺りは、妙本寺や本覚寺など日蓮宗の寺院が多く、鎌倉に現存する寺院数は九十位あるが、日蓮宗の寺院は二十八寺あるそうです。(禅寺は山ノ手にかたまっているが日蓮宗の寺院は下町に多い。)
 
この通り(小町大路)は幕府と港(材木座の和賀江)を結ぶ重要な道で、当時は大変賑わっていたようです。日蓮上人はこう言う辻々で民衆の人々に、深い思いやりと流暢な言葉で説法を続けられたのでしょう。
(一遍上人も同時代の方ですから、日蓮上人の説法をこう言うところで、聞いたのでは.......と思ったりしました。)
 

 宝戒寺  ほうかいじ : 鎌倉市小町3-5-22
 
鶴岡八幡宮前の横大路のつき当たりにある北条一族弔の寺。
開基は後醍醐天皇で建武二年(1335)建立。
 
イベントの最後に拝観した寺で、先生の資料のタイトルに
 
   『鎮魂の寺』 宝戒寺 ─萩の寺─
 
とありますように、‘はぎ寺’で知られますが、それはさて置きここは鎌倉幕府滅亡ゆかりの寺でイベントの最後にふさわしいお寺でした。
 
この地は北条氏代々の屋敷跡で、最後の執権十四代北条高時の居住跡。
この近くに北条氏一門が火を放って自害したと言われる東勝寺跡や、‘高時腹切りやぐら’があります。
 
また、近くを流れる滑川は一族八百七十余人の血で真っ赤に染まった、などと聞きますと思わず身震いすると同時に、無惨な殺戮で終わった幕府滅亡の悲惨さを想います。
 
足利尊氏も後醍醐天皇に奏して、寺領を寄進。その「寄進状」に
 
  『ひとえに亡魂の恨みを宥め、遺骸のつみを救うために....云々』
 
とあり、痛ましい死をとげた怨霊への恐れを述べています。
 
この寺の本尊は地蔵菩薩像で、法衣の上に袈裟をかけ、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ一般的なお地蔵さんです。
非常にやさしい、おだやかな顔立ちで、心が洗われる思いがし、何度でも拝観したいお地蔵さんです。
歴史の悲劇に遭って亡くなった人々の霊を慰めておられる、と思いますと救われる気がしました。
ヒノキの寄木造り、玉眼入りで、国の重要文化財になってます。
 
寺の裏に無患子(ムクロジ)の木があります。私も全く知らなかったのですが、この果実の種は黒く硬く、羽根つきの羽根の玉に用いられたり、数珠の一部にも使われるとの事。木の下に果実や種が沢山落ちていて、皆童心に帰って拾いました。
 

最後に立ち寄ったのが【鎌倉国宝館】。
 
鎌倉地方の国宝・重要文化財が公開展示されている歴史・美術博物館。
関東大震災で鎌倉地方の社寺の多くが倒壊し、文化財も失ったので、貴重な文化財を保護すると共に、一般の人の見学の為に昭和四年に開館されたもの。
 
鶴岡八幡宮、寿福寺、円応寺、建長寺、浄智寺、明月院、辻の薬師堂などのお像が展示されてます。皆それぞれのお寺で重要かつ貴重なお像で、それを纏めて、しかも真近に観る事が出来るのですから有難い事です。
 
ここは、鶴岡八幡宮の杜の一角にあり、月曜日・年末年始以外は開いてます。

    鎌倉国宝館 公式サイト
 
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