都営大江戸線 電車旅
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東京の地下深く走る大江戸線に、新宿から乗って光が丘方面に向かいます。
中井で西武新宿線と接続していますので、西武新宿線 電車旅で紹介のスポットには大江戸線でも行けます。
   
大江戸線 豊島園駅 界隈

十一ヶ寺
十一ヶ寺はその名の通り11の寺が一箇所に集まっているので、十一ヶ寺の名で呼ばれていますがあくまでも俗称です。
各寺院とも浄土宗で本山は京都知恩院です。
豊島園駅前は豊島園通り、十一ヶ寺は道路を挟んだ反対側にあります。大江戸線は出口が2箇所ありますが、A1出口を出れば目の前が十一ヶ寺で、石垣で囲まれているのですぐに分かります。

沿革
十一ヶ寺の沿革は、本坊である誓願寺の開山「東誉上人」が、徳川家康より神田豊島町に一万余坪の地を与えられ、相州小田原より寺院を移して創開したことに始まり、塔頭6院(仮宿院、得生院、徳寿院、九品院、西慶院、快楽院)を設けました。

明暦3年(1657)の江戸の大火(振袖火事)に遭い、再び徳川家の命により、浅草田島町に移転して本坊および塔頭を建立し、更に本性院、宗周院、長安院、実昭院、長寿院を建立しました。

この間、徳川家の外護、特に桂昌院殿(綱吉生母)の菩提として、朱印三百石(神奈川県生麦在田島村)、および別院家敷地(麻布田島町:現北里研究所)などを受けています。
この時、仁寿院、称名院、常念仏道場として迎接院が新たに塔頭として創建されています。

享保年間(1716〜35)には、徳川家十人衆といわれた御用商人ならびに土井、本多、三浦、刈谷の大名家などが、塔頭を宿坊とするなどして、その外護の任に当たりました。

明治維新の改革により、御朱印地は国に没収され、各院は本坊より独立し、従来の宿坊制度の各取次檀家は、各院所属の檀家となりました。

大正12年(1923)の大震災により全院が焼失、各院の協力により昭和2年(1927)現在地である練馬の北谷戸山に墓地を移転し、ついで各寺の堂宇を竣工させ現在に至っています。
尚、元本坊の誓願寺は多摩霊園正門近くに移転しており、練馬十一ヶ寺との関係は無くなっています。
 

各寺院の紹介


 

蕎麦喰地蔵尊
九品院の境内で道路に面して安置されてます。
 
誓願寺が江戸浅草の田島町にあった頃、塔頭「西慶院」の地蔵堂に安置されていたお地蔵さんに、蕎麦屋が蕎麦を奉納し続けていた。
江戸に疫病が流行り、大勢の人が犠牲になったが、この蕎麦屋の一家は難を逃れた。
 
この言い伝えを聞いた人々が、願いがかなった御礼に蕎麦を奉納したことから「蕎麦喰地蔵」と呼ばれるようになった。…という民話があります。
 
明治維新後、西慶院が九品院に吸収され、以後、九品院に安置されることになった。

十一ヶ寺の名墓
十一ヶ寺の東奥は各寺院の墓地になっており、著名人の墓も幾つか見られ、中には東京都の旧跡指定を受けているものもあります。

池永道雲
(都旧跡)
道雲(1674〜1737)は江戸中期における著名な書家で、没年は元文2年(1737)7月19日 享年62才でした。(都旧跡)
 

池永道雲の墓
小野蘭山
(都旧跡)
蘭山(1729〜1810)は江戸中期の著名な本草学者で、享和2年(1802)孫の子徳ら門人と『本草綱目啓蒙』48巻を著している。没年は文化7年(1810)1月27日 享年82才でした。
 
青地善春一族
札差として権勢を誇ったといわれる。
 
沢村宗十郎
(初代 1685〜1756) 歌舞伎の名優。


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白山神社の大ケヤキ
十一ヶ寺を出て豊島園通りを南(練馬方面)に進み、信号のあるT字路を左折し、坂道を降りきった左手に白山神社があります。
白山神社は練馬宿の氏神として崇敬を集めた神社で、創建に関しては不明ですが平安時代と謂われています。
 
境内には大ケヤキが2本あります。いずれも樹齢7・800年と推定され、1本は目通り10m、他の1本は7mで高さ約20m程の巨木です。
昭和15年(1940)に国の天然記念物に指定されています。明治初年までは6本残っていたとのことです。

永保3年(1083)、源義家が奥州平定に下る際、戦勝を祈願して欅の苗を奉納したものと謂われています。

神社の付近から多くの板碑が発掘されており、弘安3年(1280)の「阿弥陀一尊板碑」なども含まれています。

鎌倉時代には、武蔵武士が鎌倉へ往来する途次にあり、村里が発達していたと推定されます。

白山神社は無住の神社ですが、例祭、年始、七五三時期には宮司が出張してきます。
お宮参りなどは事前予約が必要です。社務所に連絡先が掲載されています。
 

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