諸國放浪紀江戸三十三観音霊場
第12番 無量山 傳通院むりょうさん でんづういん
正式名称
無量山 傳通院 寿経寺
宗派
 
浄土宗
札所本尊
 
無量聖観世音菩薩
本尊
 
阿弥陀如来
御真言
 
おん あろりきゃ そわか
ご詠歌
 
有難や 真の道を踏む人は
  慈悲の阿弥陀が 救う尊さ
所在地
 
文京区小石川3-14-6
03-3814-3701
バス停
 
公式サイト
道のり  
11番圓乗寺12番傳通院
11番圓乗寺からは、都営三田線白山駅へ向い、春日まで乗車。
春日駅前(文京シビックセンターの前)2番のりばから都営バス 都02系統(大塚駅前・池袋駅東口行)または、上69系統(小滝橋車庫前行)に乗車、2つ目の伝通院前で下車する。
参拝メモ

伝通院前バス停で下車し、春日通りを伝通院前交差点まで戻り、北側に曲がると突当りが傳通院である。桜並木に覆われた参道を行くと突当りに本堂が建つ。

傳通院の歴史について調べてみると、
応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が小石川極楽水に小庵を結び、無量山寿経寺を創開したのが始まりとされている。

慶長7年(1602)、徳川家康公の生母於大の方が逝去され、寿経寺を菩提寺と定め、於大の方の法名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」から傳通院と呼ばれるようになった。

また、正保4年(1647)、三代将軍家光公の次男亀松君が葬られ、以来徳川家の庇護のもと大伽藍が整えられた。

享保6年(1721)、享保10年(1725)と二度の火事で堂塔伽監を焼失したが、徳川家の外護のもと、文政4年(1821)には当初の姿に復興した。

傳通院は、関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関・学問所)18ヶ寺である関東十八檀林の増上寺に次ぐ上席として、学僧の修行勉学の場となり、僧侶養成の重責を担った。
現在でも、学問寺としての伝統を引き継ぎ、明治25年(1892)淑徳女学校を創立し、現在の淑徳SCに至っている。

明治維新以降は、廃仏毀釈と徳川家没落の影響を受け、隆勢時の面影を失った。
明治43年(1910)、火災で堂宇を焼失、更に昭和20年(1945)の東京大空襲により壊滅状態になった。
昭和63年(1988)に新本堂が建立され現在に至っている。

本堂に上がってみると、内陣は広く、中央に本尊の阿弥陀如来像が安置されている。
その左側に、札所本尊の無量聖観世音菩薩像が安置されている。木目を生かし、細身で背の高い木造観音像である。
参拝者の休憩所にもなっている朱印所にも同様の観音像が安置されている。

鐘楼は昭和41年(1966)建立で、梵鐘は天保10年(1839)に改鋳されたものとのことで、東京都の重要美術品として戦時供出を免れているという。

鐘楼から奥に進むと、(表に向って奥に進むという言い方は変だが、現在山門を復興新築中で、工事用のフェンスが立てられているので、参道は鐘楼の先で行止りになっている。)地蔵尊像をはじめ色々なものが安置されている。

法蔵地蔵尊像は、観世音菩薩と勢至菩薩が脇侍という珍しい三尊形式である。
ここ一帯には、仏足石、宝篋印塔などが安置されているが、面白いのは親指を差出した指塚(右端)で、「指圧の心は母心、押せば命の泉わく」の名セリフで一世を風靡した日本指圧協会会長・故浪越徳治郎寄贈のものである。


Memo
  伝通院朱印  
創建
応永二十二年(1415)
  開山 浄土宗第七祖了誉
  納経所 観音堂内の受付
     
  駐車場 参道右側に広いスペースがあり、駐車可能
    但し、イベント開催時は駐車不可
     
     
       
       

文京朝顔・ほおずき市
文京区の夏の風物詩である「文京朝顔・ほおずき市」が毎年7月中旬の2日間開催される。
ほおずき市は「こんにゃくえんま」で知られる源覚寺で開催され、 朝顔市は伝通院の境内が会場になっている。
この2ヶ寺を中心に地元商店会・町会が一緒に行うイベントで、伝通院では物産展や納涼コンサートなども開催される。


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